小塩五郎とは? わかりやすく解説

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小塩五郎

(小塩芳賢 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 02:06 UTC 版)

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おしお ごろう
小塩 五郎
生誕 小塩三千五郎
天保元年(1830年
尾張国愛知郡名古屋中ノ町
死没 1894年明治27年)7月2日
愛知県名古屋市中区中ノ町
墓地 本要寺→平和公園
国籍 日本
別名 諱:芳賢、号:三居巣、法号:総持院薬草日採居士
職業 尾張藩
団体 嘗百社、北勢交友社、随意会、浪越博物会
流派 尾張本草学
配偶者 ちよ
実父:小塩親賢、一時養父:吉田雀巣庵

小塩 五郎(おしお ごろう、天保元年(1830年) - 1894年明治27年)7月2日)は江戸明治時代本草学者。旧尾張藩士。

生涯

江戸時代

天保元年(1830年)尾張国名古屋中ノ町[1](現中区一丁目下園公園内[2])に尾張藩士小塩親賢の第5子として生まれた[3]。幼名は三千五郎だったが、藩主に三千姫が生まれると、これを避諱して五郎とした[4]

朝倉某に射術、吉田雀巣庵本草学を学んだ[3]。吉田家には子がなかったため、安政初年跡継ぎに見込まれて養子となったが、雀巣庵に実子角鞠が生まれたため、小塩家に戻った[5]。小塩家では部屋住に甘んじ[4]、裏長屋で網針、矢の作製、鎧の修繕等をして過ごした[1]

明治時代

1882年(明治15年)7月丹羽修治等が開いた北勢交友社に参加し、博物会へ出品を続けた[4]

1886年(明治19年)3月15日中ノ町の自宅に三島豪山、大窪安治、久米安政等と博物標本の展示会を開いて随意会と称し、4月8日浪越博物会と改称[6][7]、1887年(明治20年)から愛知県博物館で教育博物会を開催し、愛知県教育博物会へ発展的に解消した[6]

1890年(明治23年)伊藤圭介米寿記念博覧会に際し上京し、1891年(明治24年)春伊藤圭介と岡山後楽園に旅行した[4]

1893年(明治26年)7月25日伊藤恭四郎と富士山に採集した際身体を害し[4]、11月2日若き牧野富太郎伊吹山採集へ誘われるも、中風のため同行できなかった[1]

1894年(明治27年)7月2日死去し、東区小川町本要寺に葬られ[3]平和公園に改葬された[4]。法号は総持院薬草日採居士[3]

図譜

採集

採集地は菰野山伊吹山恵那山御嶽山木曽駒ヶ岳富士山[3]養老、湯山、知多[1]等に及び、草鞋履き、尻端折りの姿で、腰の竹筒に酒を入れて採集を行った[1]。また、魚釣りも趣味とした[1]

動植物の鑑定では尾張本草家でも随一と称され、ミイス(ミスターの意[1])と呼ばれ、自ら三居巣の字を当てて雅号とした[3]

親族

  • 父:小塩新左衛門親賢 – 尾張藩士小塩家7代[4]
  • 妻:ちよ[4]
  • 一時養父:吉田雀巣庵

脚注

  1. ^ a b c d e f g 土井 1947, p. 212-214.
  2. ^ 納屋橋東 2007, pp. 34-35.
  3. ^ a b c d e f 名古屋市 1934, pp. 525-526.
  4. ^ a b c d e f g h 吉川 1958, pp. 185-189.
  5. ^ 吉川 1951, p. 44.
  6. ^ a b 西川 2005, p. 174.
  7. ^ 蟹江 & 西川 2006, p. 268.

参考文献

外部リンク




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