大窪安治とは? わかりやすく解説

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大窪安治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/03 07:13 UTC 版)

 
大窪 安治
時代 幕末明治時代
生誕 文政9年(1826年
死没 明治26年(1893年10月8日
改名 大窪小新吾、吾兵衛、勘五郎、太兵衛
別名 号:薜茘庵
戒名 安治院明道義忠居士
墓所 長栄寺
主君 徳川斉荘慶臧慶恕茂徳義宜慶勝
尾張藩
氏族 大窪氏
父母 大窪昌章
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大窪 安治(おおくぼ やすはる)は幕末明治時代本草学者。尾張藩士、嘗百社社員。大窪光風大窪昌章に次ぎ薜茘庵3代目[1]

経歴

本草学者大窪昌章の長男として生まれた[2]。幼名は小新吾、後に小新吾兵衛、勘五郎[2]

天保13年(1842年)6月14日父の死により御馬廻組を継ぎ、弘化3年(1846年)12月4日小十人組、嘉永6年(1853年)2月26日赤麾となり、3月29日太兵衛と改称した[3]安政4年(1857年)7月23日新御番、安政5年(1858年)2月19日組目付加役、文久4年(1864年)1月16日小十人組与頭[3]明治2年(1869年)9月2日一等兵隊となるも、明治3年(1870年)11月12日兵制改革のため免職となった[3]

明治19年(1886年)3月15日中ノ町小塩五郎宅に三島豪山、久米安政等と博物標本の展示会を開いて随意会と称し、4月8日浪越博物会と改称した[4][5]。明治26年(1893年)10月8日68歳で死去し、長栄寺に葬られた[2]。法号は安治院明道義忠居士[2]

逸話

小塩五郎菰野山へ採集に行き、馬に同乗して四日市を通った際、大柄なため看板に頭をぶつけて瘤を作り、小柄な小塩五郎を落馬させてしまった[6]

晩年病臥し、起き上がれないと知ったある日、家族に「私はもう死ぬ。今日は馴染みの美人の芸者を呼んで最期の楽しみを極めたい。早く呼んでくれ。」と頼んだ。家族が訝ると、「美人の芸者というのは長年集めてきた腊葉標本のことだ。早く箱の中から呼んでくれ。」というので、家族は承知し、標本を部屋の壁一面に貼り付けた。安治はこれを見て「何物の美もこれには及ぶまい。ああ、もう心残りはない。」と喜び、間もなく死去した[2]

脚注

  1. ^ 磯野 2010, p. 37.
  2. ^ a b c d e 名古屋市 1934, pp. 499–500.
  3. ^ a b c 『藩士名寄』
  4. ^ 西川 2005, p. 174.
  5. ^ 蟹江 & 西川 2006, p. 268.
  6. ^ 吉川 1958, p. 187.

参考文献




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