吉田雀巣庵とは? わかりやすく解説

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吉田雀巣庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/04 02:04 UTC 版)

 
吉田 高憲
時代 江戸時代後期
生誕 文化2年(1805年
死没 安政6年8月24日1859年9月20日
改名 世良太郎、平九郎
別名 字:地岳、号:藪月、雀巣庵
戒名 秋興院地岳奇雲居士
墓所 長福寺[1]
主君 徳川斉朝斉温斉荘慶臧慶恕茂徳
尾張藩
氏族 吉田氏
父母 吉田平九郎、ゑい
吉田角鞠
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吉田 雀巣庵(よしだ じゃくそうあん)は、江戸時代後期の本草学者。通称は平九郎、諱は高憲。尾張藩士。本草学結社嘗百社の一員として動植物の収集、写生に取り組み、特に昆虫類の図画をまとめた『虫譜』は高く評価されている。月琴、古物にも造詣が深かった。

概要

文化2年(1805年)、尾張藩士吉田平九郎の子として生まれた[1]。吉田家当主は代々平九郎を名乗り、住所は尾張国名古屋広井三蔵、禄は100石であった[1]

母ゑいは文化10年(1813年)3月3日死去、父平九郎も文政6年(1823年)10月死去し、12月4日家督を相続した[1]。当初馬廻組に所属したが、文政7年(1824年)2月29日寄合組に転じ、文政13年(1830年)7月11日平九郎を襲名した[1]

文政頃、水谷豊文、石黒済庵、伊藤瑞三、大窪太兵衛大河内存真等が定期的に開いていた本草会に大窪昌章伊藤圭介、神谷三園等と加わり、その頃嘗百社と命名された[2]木曽駒ヶ岳白山等に動植物を採集し、社中では「平九さん」と親しまれたという[1]飯沼慾斎は晩年著書を編述中、不審点がある度に家を訪れ、いつも謝礼として美濃紙を贈っていたという[1]

月琴を嗜んだほか、古物の収集にも熱を入れており、細野要斎、岡田文園、小寺玉晁、小田切春江野口梅居等による同好会に参加し[1]天保3年(1837年)から没年まで毎年1月25日自宅で博物会を催し、古い器物、瓦、貨幣、藩札等を展示した[3]安政2年(1855年)4月14日には御下屋敷脇広場で甲冑出張調を行っている[1]

当初子ができず、一時門人小塩五郎を養子としたが、その後実子角鞠が誕生した[1]

安政6年(1859年)8月24日コレラにて死去[1]。家督相続の都合で、藩には27日没として届け出た[1]万延元年(1860年)3月25日、追薦のため七ツ寺で博物会が開催された[3]

著書

脚注

参考文献




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