小刀会との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/25 07:11 UTC 版)
1853年、小刀会の蜂起がおこり、安渓・永安・アモイが陥落したが、翌年には一部が台湾に渡り、鶏籠(現在の基隆)を占拠した。北路協副将曽玉明は林文察の才を聞き、林家の影響力も考えて、助勢を求めた。林文察は200名の団練を率いて小刀会を大敗させ、鶏籠を回復した。この功績により林媽盛殺害事件に対して無罪が言い渡された。1857年、太平天国軍の傍系の勢力である郭万淙が小刀会を再建し、書佔山を根拠地として、翌年に麻沙を陥落させ、建陽を包囲した。台湾鎮総兵邵連科は義勇軍を募り、林文察は420人を率いて参加した。閩浙総督王懿徳は1859年2月に林文察を正式に遊撃に任用した。5月に林文察は友軍とともに建陽の包囲を解き、北上して麻沙の敵兵を殲滅して、回復に成功した。引き続き林文察は郭万淙を追撃して投降させた。郭万淙の残党は土匪の胡熊と合流したが、林文察は大田を大軍で包囲して、胡熊は投降した。林文察は参将に昇格し、その後さらに副将に昇進した。
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