富内村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/10 03:10 UTC 版)
| とんないむら 富内村 |
|
|---|---|
| 廃止日 | 1949年6月1日 |
| 廃止理由 | 国家行政組織法施行 |
| 廃止時点のデータ | |
| 国 | |
| 地方 | 樺太地方 |
| 都道府県 | 樺太庁 豊原支庁 |
| 郡 | 大泊郡 |
| 面積 | 1,534.897[1] km2. |
| 総人口 | 2,773人 (1941年12月1日) |
| 隣接自治体 | 豊原市 大泊郡大泊町、千歳村、深海村、長浜村、知床村 豊栄郡栄浜村、豊北村 |
| 富内村役場 | |
| 所在地 | 樺太庁大泊郡富内村 |
| ■ ― 市 / ■ ― 町 / ■ ― 村 |
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| 特記事項 | 1943年4月1日以降は北海地方に所属。 |
| ウィキプロジェクト | |
富内村(とんないむら)は、日本の領有下において樺太に存在した村(指定町村)。
白瀬矗の南極探検隊に参加したアイヌの山辺安之助が、この村に住み、総代を務めたことで知られている。
また、1923年に富内村と合併した旧・落帆村は、アイヌ語研究者の金田一京助が樺太での初調査の際訪れたことで有名[2]。金田一は、トンナイチャの総代、ラマンテ(東内忠蔵)からハウキ(英雄叙事詩)を再録し、和訳したものが『北蝦夷古謡遺篇』として出版された[3]。
現在、ロシアにより実行支配されている樺太(サハリン)の行政区画においてはコルサコフ管区に所属し、オホーツコエ(Охотское)と呼ばれている。
村名について
富内という地名は、アイヌ語でトンナイチャ(Tonnayca)と呼び、樺太アイヌの千徳太郎治は、「湖水の流る深き処即ち湖水の中流を云ふ(チャ)は辺りの意義にして、湖水の辺りの村ある」という意味であると説明している[4]。
西村いわおは、諸文献を参照し「湖からでる川岸」「水深きほとりにある」「湖から出る川」「湖のある川の川岸」という4つの解釈を紹介している[5]。
漢字に引っ張られて「とむない」と読む人もいる。
なお樺太西海岸にもトンナイ(富内)という地名があり、終戦時の本斗町にトンナイという地名があり、東海岸のトンナイと区別するため「西トンナイ」と呼ばれ、江戸時代には「西トンナイ場所」が置かれた。その後、場所がマオカ(その後の真岡町)に移った[6]。
概要
オホーツク海に面し、樺太の行楽地である富内湖や恩洞湖や遠幌湖・能仁湖・頭場湖など、湖の多い村であった。
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富内村の街
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現在のオホーツコエ付近のオホーツク海岸
歴史
- 1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により、富内村、喜美内村、落帆村が行政区画として発足。富内郡に所属し、大泊支庁が管轄。
- 1923年(大正12年)4月1日 - 喜美内村・落帆村が富内村に合併。
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により二級町村となる。所属郡が長浜郡に変更。
- 1942年(昭和17年)11月 - 所属郡が大泊郡に、管轄支庁が豊原支庁にそれぞれ変更。
- 1943年(昭和18年)4月1日
- 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
- 指定町村となる。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。ロシア語名はオホーツコエ。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日富内村廃止。
戸籍簿
終戦後に内地へ戸籍簿が持ち出され、現在は旧樺太戸籍簿として富内村の戸籍簿1冊が外務省に於いて保管されている。これらは戸籍法上の戸籍簿ではなく、行政文書の一種と扱われている。[7]
村内の地名
1917年『樺太法令類聚 總務編』によれば当時は以下の大字小字が設定されていた。
| 行政区画 | 大字 | 小字 |
|---|---|---|
| 富内村 | 大字富内字 | 富内、阿辺、遠幌、能仁、下伊佐、中伊佐、上伊佐、育仁、野幌 |
| 大字愛郎字 | 愛郎、矢根、親口、神居、豊舞、鉢戸、東幌泊 | |
| 落帆村 | 大字落帆字 | 落帆、南板田、煤牛、南遠古丹、蝶内、南藻入、南負咲 |
| 大字恩洞字 | 恩洞、散毛主 | |
| 喜美内村 | 大字喜美内字 | 下喜美内、上喜美内 |
| 大字皆岸字 | 皆岸 |
1925年『樺太殖民關係法規』による当時の大字小字は以下の通りである。
| 行政区画 | 大字 | 小字 |
|---|---|---|
| 富内村 | 大字富内字 | 富内、阿辺、遠幌、能仁、下伊佐、中伊佐、上伊佐、育仁、野幌 |
| 大字愛郎字 | 愛郎、矢根、親口、神居、豊舞、鉢戸、東幌泊 | |
| 落帆村 | 大字落帆字 | 落帆、南板田、煤牛、南遠古丹、蝶内、南藻入、南負咲 |
| 大字恩洞字 | 恩洞、散毛主 | |
| 喜美内村 | 大字喜美内字 | 下喜美内、上喜美内 |
| 大字皆岸字 | 皆岸 |
1934年『樺太庁法規 中巻』によれば当時は以下の大字小字が存在していた。大字富内・大字愛郎・大字恩洞は大字富内、大字喜美内・大字皆岸は大字喜美内にまとめられた。
| 自治体 | 大字 | |
|---|---|---|
| 富内村 | 大字富内字 | 富内、阿辺、遠幌、能仁、下伊佐、中伊佐、上伊佐、育仁、野幌、愛郎、矢根、親口、神居、豊舞、鉢戸、東幌泊、恩洞、散毛主 |
| 大字落帆字 | 落帆、南板田、煤牛、南遠古丹、蝶内、南藻入、南負咲 | |
| 大字喜美内字 | 下喜美内、上喜美内、皆岸 |
また上記以外にも以下の地名が存在していたとされる。
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([8])
地域
教育
以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[9]。
- 樺太公立富内国民学校
- 愛郎分教場
- 樺太公立落帆国民学校
- 上落帆分教場
- 樺太公立南遠古丹国民学校
- 樺太公立皆岸国民学校
- 樺太公立上喜美内国民学校
- 樺太公立喜美内国民学校
- 樺太公立下喜美内国民学校
脚注
- ↑ 市町村別日本国勢総攬 下卷(帝国公民教育教会 1938年)に「面積 九九・五二方里」とあり。
- ↑ かつて「心の小道」という題名の随筆が国語の教科書に掲載され、広く読まれた。
- ↑ 北海道アイヌの叙事詩は多数記録され、公刊されているが、樺太のものはこれ以外に公刊されているものは近年までほとんど存在しなかった。
- ↑ 千徳太郎治『樺太アイヌ叢話』 P.48
- ↑ 『南樺太:概要・地名解・史実 』p.242
- ↑ 西鶴定嘉『樺太の歴史』付篇
- ↑ “旧樺太の戸籍に関する証明”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2026年2月25日閲覧。
- ↑ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ↑ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1681
関連項目
固有名詞の分類
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