家族の死と慈善事業のはじまり(1915年)
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「エリザベス・スプレーグ・クーリッジ」の記事における「家族の死と慈善事業のはじまり(1915年)」の解説
1915年、1月に父アーノルド、5月に夫フレデリックが相次いでこの世を去り、同年に息子のアルバートが結婚して独立、さらに翌1916年には母ナンシーも亡くなり、50歳を過ぎてエリザベスは孤独の身となった。エリザベスは当時の金額で400万ドルとも500万ドルともいわれる父の個人資産を相続すると、これを亡き父や夫にゆかりのある人々、音楽、医療などの支援に使うことにした。 1915年には父が役員を務めたシカゴ交響楽団に10万ドルを拠出して楽団員のための年金を創設し、父が卒業したイェール大学に音楽ホールの「スプレーグ・ホール」を建設する。医療関係では、シカゴの両親の邸宅及び自宅を看護師の住居として病院に提供したほか、夫と暮らしたピッツフィールドでは結核患者のための病院を建設し、所有していた別荘を障害のある子供たちための施設として提供した。また、いとこのルーシー・スプレーグ・ミッチェル(英語版)がニューヨークで開いた教育施設(後のバンク・ストリート教育大学(英語版))を財政的に援助した。
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