宮川房之とは? わかりやすく解説

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宮川房之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/10 14:07 UTC 版)

宮川 房之(みやがわ ふさゆき、生没年不詳)は、日本明治時代初期の官僚自由民権運動家。官選第4代の長崎県知事(正確には、初代権知事(1871年(明治4年)1月7日 - 11月14日)、初代権令(1871年(明治4年)11月14日 - 1872年(明治5年)8月2日)、初代県令(1872年(明治5年)8月2日 - 1876年(明治9年)5月15日))である。

概要

肥後熊本藩出身。横井小楠に師事し、嘉悦氏房山田武甫安場保和と共に小楠門下の四天王と称された[1]。明治元年(1868年)、会計官御用掛となる。同年、御雇・会計官出仕となり、8月に営繕司権判事、9月には会計官営繕司判事となり、11月には営繕司知事に進む。また12月には徴士となるも、翌明治2年(1869年)5月には、これを免ぜられた。その後、同年7月に民部省出仕、9月には民部省出仕・土木正心得となり、12月には恭明宮造営御用掛、土木権正に任ぜられ、明治3年(1870年)8月には正七位に叙せられて土木正となる。

明治4年(1871年)1月に長崎県権知事となり正六位に叙せられ、同年11月14日には長崎県令となった。また、明治5年(1872年)11月10日には従五位に進んでいる。

明治9年(1876年)に長崎県令を退いた後、官職を辞して帰郷。西南戦争後に自由民権運動に参加。また、明治13年(1880年)には山田武甫・徳富一敬と熊本の上林町に私立中学の共立学舎を設立した。明治15年(1882年)2月に創立委員として公儀政党を結成し、山田武甫・嘉悦氏房らと共に幹事を務め、同年3月には九州改進党創立大会に出席。明治16年(1883年)7月、九州改進党代表5人の1人として東北七州連合結成大会に出席し、福島・山形・鶴岡・酒田・秋田・弘前で遊説を行い、明治17年(1884年)5月の九州改進党福岡大会にも熊本代表として出席した[2]

脚注

  1. ^ 山崎正董『横井小楠伝 上巻』日新書院、1942年、p.110。
  2. ^ 『熊本の自由民権運動』自由民権百年熊本県民集会実行委員会、1982年、p.79。

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