実際の邸宅跡は別の場所?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 13:56 UTC 版)
「坂本八幡宮」の記事における「実際の邸宅跡は別の場所?」の解説
戦後間もない頃、竹岡勝也(九州大学教授)が、坂本八幡宮の周辺の台地にかつて大伴旅人邸があったと考えられなくもない、と言及した。これが発端となり、坂本八幡宮が大伴旅人の邸宅跡であると通説のように語られるようになった。 昭和61年(1986年)、この説を検証するため、九州歴史資料館(九歴)による坂本八幡宮付近の発掘調査が行われた。祭祀用とみられる土製馬形「土馬」などが出土したものの、8世紀前半の建物遺構は検出されなかった。このため当時の九歴は、坂本八幡宮付近は違うと判断している。坂本八幡宮の真下は発掘調査が行われていないため、坂本八幡宮にあった可能性が完全に消えたわけではないが、坂本八幡宮付近が邸宅跡であるとする説は長年の通説的地位を喪失した。 現在、坂本八幡宮付近に加えて、政庁東側に位置する月山東地区官衙跡と、政庁南側に位置する条坊跡周辺(現・榎社周辺)の3か所が、大伴旅人の邸宅跡の可能性がある土地として指摘されている。赤司善彦(大野城心のふるさと館館長)は、奈良時代の「玉石敷きの溝」跡などを根拠に、政庁東側の月山地区にあったのではないかとする説を唱えている。
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