定公 (鄭)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/01 14:24 UTC 版)
定公 姫寧 | |
---|---|
鄭 | |
18代公(周制による爵位は伯) | |
王朝 | 鄭 |
在位期間 | 紀元前530年 - 紀元前514年 |
都城 | 新鄭 |
姓・諱 | 姫寧 |
諡号 | 定公 |
没年 | 紀元前514年 |
父 | 簡公 |
定公(ていこう、生年不詳 - 紀元前514年)は、春秋時代の鄭の君主。姓は姫、名は寧。
生涯
鄭の簡公の子として生まれた[1]。紀元前530年3月、簡公が死去する[2]と、定公は後を嗣いで鄭公として即位した。秋、定公は晋の昭公に朝見した。紀元前529年、楚の平王が即位すると、霊王の時代に奪った土地を鄭に返還した[1]。定公は晋・斉・魯・宋・衛などの諸侯と平丘で会合した[3]。紀元前526年、晋の韓起(韓宣子)が鄭を訪れ、子産と会談した[4]。紀元前524年、鄭で火災が起こった。子産が火災に遭った社を再建した[5]。
紀元前522年、楚の太子建が鄭に亡命してきた。この年、子産が死去し、游吉が執政となった[6]。紀元前520年、太子建が晋と共謀して鄭を襲おうと謀ったため、鄭は太子建を殺し、建の子の勝は伍子胥に連れられて呉に逃れた[7]。紀元前517年、定公は晋に赴き、士鞅と会談した[8]。紀元前514年4月丙戌、定公は死去し[9]、子の献公が鄭公として即位した[1]。
脚注
- ^ a b c 『史記』鄭世家
- ^ 『春秋左氏伝』昭公12年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公13年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公16年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公18年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公20年
- ^ 『史記』鄭世家による。同書十二諸侯年表は楚建が反乱を起こして殺されたのを鄭の定公11年、すなわち紀元前519年のこととする。『春秋左氏伝』哀公16年にもこの経緯はみえるが、年期は明らかではない。
- ^ 『春秋左氏伝』昭公24年
- ^ 『春秋左氏伝』昭公28年
|
|
「定公 (鄭)」の例文・使い方・用例・文例
- 侵食から色彩豊かな頂上と尖塔をもつサウスダコタの国定公園
- 地質学上の特徴および化石を示すコロラド川の深い峡谷が設けるマイルおよび動物を含むアリゾナの国定公園
- 休火山を含むハワイの国定公園
- 石化した針葉樹の世界で最も大きな集積地であるアリゾナの国定公園
- 愛知高原国定公園という,愛知県にある国定公園
- 秋吉台国定公園という国定公園
- 網走国定公園という国定公園
- 九州地方にある国定公園の一つ
- 壱岐対馬国定公園という,九州地方にある国定公園
- 石鎚国定公園という,四国地方にある国定公園
- 揖斐関ケ原養老国定公園という,中部地方にある国定公園
- 北海道地方にある国定公園の一つとしての大沼国定公園
- 東北地方にある国定公園の一つ
- 沖縄海岸国定公園という国定公園
- 沖縄戦跡国定公園という国定公園
- 確定公債という種類の公債
- 北九州国定公園という,九州地方にある国定公園
- 北長門海岸国定公園という,中国地方にある国定公園
- 九州中央山地国定公園という,九州地方にある国定公園
- 東北地方にある国定公園の一つである栗駒国定公園
- 定公_(鄭)のページへのリンク