安曇氏と海部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 23:50 UTC 版)
安曇氏は、『日本書紀』応神天皇3年11月条に「處々海人、訕哤之不從命。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰。」とあるように、海人の暴動を抑えた功績によって「海人の宰」となったとされる。また、同天皇5年8月条には、「令諸国定海部及山守部」とあり、海部の起源であるとされ、同時期に海人の宰としての安曇氏と海部が成立したことから、安曇氏は海部の伴造であるとされてきた。しかし、実際に安曇氏が海人の宰領としての役割を史料上で果たすのは、推古天皇の時代である。履中天皇即位前紀には阿曇浜子が淡路島の海人を率いているものの、これは海部ではない。 史料に見える海部は地域によって姓が直や連、臣など、異なる姓を有しているが、これは海部の伴造となった氏族(尾張氏や吉備氏など)に由来していると考えられる。そのため、安曇氏と同族関係を結んだものもあれば、他氏族と結んだものもあると思われ、安曇氏は一部地域の海民を統括し、ヤマト政権の一環に組み入れられたことは考えられるが、全国全ての海人を管掌したわけではなく、各地の海部は安曇氏と同程度あるいはそれ以上に古くに日本各地に設定されて、設置当初から安曇氏とは関係なくヤマト王権に組み入れられていたと考えられる。
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