学校開設後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/18 08:17 UTC 版)
1851年、リュスリンゲに古い農民の家を購入し、それを乏しい費用で改装してホイ・スコーレを開校、この学校は、これから10年存続する。翌1852年にはフュンの北部にもフリースクール開校。1853年、ケアテミンネ(Kerteminde)近郊のダルビュ(Dalby)のフリースクーレの父母会の要望で、コルのホイスコーレがダルビュに移転する。コルはこの地でホイスコーレとフリースコーレを9年間運営する。多くの学生が彼のもとに集まり、彼らは卒業して、故郷に戻り、さらにフリースコーレを増やしていく。コルの学校は、支持者を増やし、1863年には、オーデンセの近くのデーロム(Dalum)に募金により大きなホイスコーレを新設、そこに活動の拠点を移し、デンマーク国内ではかなり知られた教育者になった。1865年、コル48歳で、21歳の娘クリスティーネと結婚。1866年、グルントヴィによりコペンハーゲンでの「同士の集い」の大会の講演者として招かれる。1870年、デーロムで54歳で病気により亡くなり、墓所はそこの教会にある。彼には娘が2人あった。
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