嫡子・忠茂の伝との混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:27 UTC 版)
また、後代成立の諸書に松平義春が弘治2年(1556年)2月20日三河国額田郡形野村(現・岡崎市桜形町)の日近城の奥平貞直(久兵衛尉)を攻めた際、戦死した(城兵の放った矢(銃弾とも)にあたり重傷を負い家臣に背負われて退却の途中、近接地の大林で絶命した)と伝える。しかしこれは、嫡子忠茂の伝を誤ったものと現在では確定され、義春については前節の通り三河物語で記述の「両方とも相前後して病死」という死没時期が相応しい。なお義春・忠茂父子は共に通称を甚太郎と称していたとされ、忠茂が若年で戦死したため義春一代の事績として誤伝されたと思われる。
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