妻室とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 生活 > 親族 > > 妻室の意味・解説 

さい‐しつ【妻室】

読み方:さいしつ

つま。さい。家内


妻室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)

明智光秀」の記事における「妻室」の解説

正室は『明智軍記』などに記載のある糟糠の妻妻木氏煕子)。俗伝として喜多村保光の娘、原仙仁の娘という側室がいたともある。本室の前に山岸光信進士光信)の娘(千草)に未婚庶子を産ませたとする説もある。後年には「側室儲けなかった愛妻家」と一般に伝わる。

※この「妻室」の解説は、「明智光秀」の解説の一部です。
「妻室」を含む「明智光秀」の記事については、「明智光秀」の概要を参照ください。


妻室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:13 UTC 版)

浅野綱晟」の記事における「妻室」の解説

父:浅野光晟(1617-1693) 母:自昌院(1620-1700) - 満姫徳川家光養女前田利常三女 正室愛姫生年不詳 - 万治2年6月11日1659年7月30日)) - 九条道房長女。母は鶴姫万治元年1658年4月高田殿の養女として入輿岩松出産後体調崩し江戸にて死去法名は芳院殿光誉英心大禅定尼長男浅野綱長(1659-1708) 継室八代姫(生年不詳 - 延宝7年4月13日1679年5月22日)) - 九条道房の五女。愛姫同母妹。寛文2年1662年4月入輿浅野長澄本多忠常室の母。江戸にて死去し目黒安養院葬られた。次男浅野長澄(1671-1718) - 浅野長照養子 女子本多忠常正室 表 話 編 歴 浅野家広島藩3代藩主 (1672年 - 1673年) 福島家福島正則1600-1619 信濃高井野藩転封 浅野家浅野長晟1619-1632 浅野光晟1632-1672 浅野綱晟1672-1673 浅野綱長1673-1708 浅野吉長1708-1752 浅野宗恒1752-1763 浅野重晟1763-1799 浅野斉賢1799-1830 浅野斉粛1831-1858 浅野慶熾1858 浅野茂長(長訓)1858-1869 浅野茂勲長勲)1869-1871

※この「妻室」の解説は、「浅野綱晟」の解説の一部です。
「妻室」を含む「浅野綱晟」の記事については、「浅野綱晟」の概要を参照ください。


妻室

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:01 UTC 版)

比企能員」の記事における「妻室」の解説

渋河兼忠の娘 『吾妻鏡』建仁3年9月2日によれば同日夜に渋河刑部丞(兼忠)が「能員之舅」だったために誅殺されており、兼忠の娘が能員の妻だったことがわかる。 ミセヤノ大夫行時の娘 『愚管抄』によれば、能員の「父ノ党」だった「ミセヤノ大夫行時」の娘が能員の妻で、若狭局はその所生である。行時の身元不明だが、比企氏とも関係の深い児玉党も婿としていたという。比企郡の有力武三尾谷氏の娘と比定する見解もある。 三浦氏の娘 能員の墓所妙本寺寺伝によれば、能員の妻として弔われている妻は三浦氏法名を妙本という。彼女は比企氏滅亡後文永2年1265年)に没した

※この「妻室」の解説は、「比企能員」の解説の一部です。
「妻室」を含む「比企能員」の記事については、「比企能員」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「妻室」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



妻室と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「妻室」の関連用語

妻室のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



妻室のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの明智光秀 (改訂履歴)、浅野綱晟 (改訂履歴)、比企能員 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS