好度支郎・楊国忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:03 UTC 版)
楊国忠はばくちを得意とすることから、玄宗にまみえ、金吾兵曹参軍に任命された。章仇兼瓊もまた戸部尚書・御史大夫に昇進した。経理・計算などを間違ったことはなく、玄宗は「好度支郎(すぐれた出納官)」として監察御史に任命した。その後は宰相の李林甫・御史中丞の王鉷と結託して、ともに楊慎矜を謀殺し、李林甫の手先として旧来の貴族や太子李亨に関係するものを排撃した。虢国夫人を使って玄宗の機嫌をよく探知し、調子をうまく合わせたために有能と判断され、度支員外郎に任命され、15以上の使職(唐代の財政などを扱う役職)を兼ねた。だが、この頃から李林甫との対立が始まったという。 天宝7載(748年)には、給事中・御史中丞に任命され、天宝8載(749年)には、財政が豊かとなり、官倉が穀物や絹であふれんばかりであったことを上奏し、玄宗に賞される。余った穀物を貨幣に変え、長安に送る税を布や絹にするように提案していた。天宝9載(750年)、李林甫の腹心であった吉温が付き、李林甫の専権を牽制し、玄宗より「国忠」の名を下賜された。
※この「好度支郎・楊国忠」の解説は、「楊国忠」の解説の一部です。
「好度支郎・楊国忠」を含む「楊国忠」の記事については、「楊国忠」の概要を参照ください。
- 好度支郎・楊国忠のページへのリンク