奥貫智策とは? わかりやすく解説

奥貫智策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 09:28 UTC 版)

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奥貫 智策(おくぬき ちさく、天明6年(1786年) - 文化9年9月27日1812年10月31日))は、囲碁棋士武州出身、十一世本因坊元丈門下、五段。知策と書かれることもある。本因坊家跡目と目されたが、27歳で夭逝した。

生涯

武州幸手の出とされるが、詳しい経歴は記録に残されていない。幼時に本因坊元丈に入門、幼名は瀬六。将来を嘱望され、『坐隠談叢』には跡目と記載されているが、跡目届けの記録は無く、実質上の内定とされていたと思われる。本因坊家の菩提寺丸山本妙寺に葬られ、法号は秀得院知策信士。本因坊丈和は1歳年少の弟弟子で、智策生前には並ぶことはできなかった。

棋譜としては、師の元丈と享和2年(1802年)から文化8年(1811年)に智策先で13局(4勝7敗2打掛)、丈和との享和3年(1803年)智策四段、丈和(葛野松之助)二段時から文化9年(1812年)8月までの12局があり、丈和先で3勝3敗1ジゴ、先相先で丈和3勝2敗で、智策に一日の長があったと見られている。

浜松山本源吉とは、享和3年(1803年)に先相先1勝7敗で打ち込まれ、先で5勝。次いで文化6年(1809年)3-5月に互先で5勝5敗1ジゴとした。安井門下で江戸詰め尾張藩碁所鈴木知清と文化8年(1811年)まで、知清の先ニ、先、先相先の101番があり、知清は後にこれを『對手百談』として刊行した。安井知得仙知とは享和2年(1802年)から二子、先ニ、先の20番がある。他に井上幻庵因碩と二子局、水谷琢順と互先、片山知的との先ニなどがある。

参考文献

関連文献

  • 鈴木知清『対手百談』1809年

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