太田古屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 06:07 UTC 版)
太田古屋(おおたごや)。1889年(明治22年)から1955年(昭和30年)までの大字。新発田川下流左岸に位置する。 もとは1881年(明治14年)から1889年(明治22年)まであった太田古屋村の区域の一部で、1881年(明治14年)に太田興野と太田興野新田の一部が合併して成立した。 1886年(明治19年)に太田興野、太田興野新田地先、太田上興野、太田上興野新田地先を合併。 太田興野(おおたごうや) 江戸時代から1886年(明治19年)の村名。新発田川下流左岸に位置する。 1730年(享保15年)に阿賀野川松ヶ崎開削翌年の阿賀野川松ヶ崎本流化により開発が始まり、1734年(享保19年)に検地を受けた。 はじめは黒山新田と称したが、1737年(元文2年)の再検地で太田興野に改称する。 太田興野新田(おおたごうやしんでん) 江戸時代から1881年(明治14年)の新田名。新発田川下流左岸に位置する。 宝暦年間頃から鉢崎村の山本丈右衛門が開発。 太田興野新田地先(おおたごうやしんでんちさき) 1868年(明治元年)から1882年(明治15年)の村名。新発田川下流左岸に位置する。 幕末に開発され、1868年(明治元年)に成立したとされる。 太田上興野(おおたかみごうや) 江戸時代から1886年(明治19年)の村名。新発田川下流左岸に位置する。 1730年(享保15年)に阿賀野川松ヶ崎開削翌年の阿賀野川松ヶ崎本流化により開発が始まり、1734年(享保19年)に検地を受けた。 はじめは城掛新田と称したが、1737年(元文2年)の再検地で太田上興野に改称する。 1881年(明治14年)に旧新発田藩領が太田上古屋村の一部となり、1886年(明治19年)に残りが太田古屋村の一部となる。 太田上興野新田地先(おおたかみごうやしんでんちさき) 1868年(明治元年)から1882年(明治15年)の村名。新発田川下流左岸に位置する。 幕末に開発され、1868年(明治元年)に成立したとされる。
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