大藏寺_(岐阜県白川町)とは? わかりやすく解説

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大藏寺 (岐阜県白川町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/12 10:13 UTC 版)

大藏寺
所在地 岐阜県加茂郡白川町上佐見・字吉田4380
山号 旭光山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 聖観世音菩薩
中興年 慶長元年(1596年)
中興 逸嶽慶俊
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大藏寺(だいぞうじ)は、岐阜県加茂郡白川町上佐見・字吉田にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は旭光山。

歴史

創建時期や由緒は不詳であるが、飛騨国益田郡御厩野にあった真言宗大威徳寺の末寺として開創されたと伝わる。

室町時代初期に白川筋に勢力を伸ばした安江左衛門尉正昭の子の安江正時は、佐見郷吉田村に居を構え、その子の安江基政は白川・佐見筋36郷の総鎮守である大山白山権現の社殿を再興したと云われ、大藏寺に「院・大居士」として祀られていた。

慶長元年(1596年)逸嶽慶俊が開基したと伝わる。

苗木藩領と幕府領

元和元年(1615年)、初代苗木藩主の遠山友政は、苗木城の傍らに菩提寺として雲林寺を開基した。

遠山友政は、その後、領内に雲林寺の末寺を創建したり、従来から存在した他宗派の寺院を臨済宗妙心寺派に改宗して末寺とした。大藏寺は改宗されて末寺となった寺院の一つである。

享保7年(1722年)6月15日、遠山友央は、兄で苗木藩主の遠山友由が没し、甥の遠山友将が苗木藩主を嗣いだ際に、兄の友由の遺言に基づき、美濃国加茂郡内において吉田村・大野村・小野村・寺前村の計490石を分知されて、旗本となり寄合に列した。

享保17年(1732年)閏5月25日、490石の旗本であった遠山友央が、遠山友将の死去により、末期養子として苗木藩主を相続した際に、旗本として分知されていた、加茂郡佐見郷の4村(吉田村・大野村・小野村・寺前村)を幕府に渡したため、大藏寺は高山陣屋飛騨郡代の支配下となり幕府領となった。

延享2年(1745年)、高山陣屋の飛騨郡代が長谷川庄五郎から幸田善太夫に替わると、(吉田村・大野村・小野村・寺前村)の内で230石は本田であるが、260石は新田なので上知できないので別の村から本田を260石差し出すように求められた。

そのため恵那郡下野村の397石のうち、317石を幕府(高山陣屋の飛騨郡代)に渡すこととし、残り80石は苗木藩領に残した。そのことにより、(吉田村・大野村・小野村・寺前村)の新田分の260石は苗木藩に戻った。

文政5年の火災

高山市の明林山神通寺に飛騨でもっとも優れた作品の一つと云われる聖徳太子像が祀られており「伝大威徳寺蔵」と伝わっている。

この像は、大藏寺に安置されていたが、偶々、神通寺が借り受けていた

文政5年(1822年)2月11日、火災によって大藏寺の本堂をはじめとする大半の建物を焼失した。これによって古記録が全て失われたが、聖徳太子像は火災の難を免れた。

『尊像縁起』によると、当時、大藏寺は既に衰微しており、老尼が住んでいたことが分かる。

当山安置の聖徳太子像は その初め 山城国梶尾寺にましましし後、当國飛騨益田郡竹原村 鳳慈尾山大威徳寺に奉安し奉りたる善縁深き尊像なり。抑も此の大威徳寺は 鎌倉将軍 源頼朝公の建立にして 文覺上人を招請して開山となし、堂塔伽藍輪燈の美を競い 峰を越え谷を渡りて東坊、多門院、南坊、竹林坊、西坊、吉祥院、北坊、寶光坊、池坊、満月坊及び福成寺等の塔頭十二坊在り数十の住侶日夜諷誦梵唄の声絶えずして 足利幕府の中期に及びたるも其の後州内兵乱久しく漸次荒廃に及べり。此の難を免れむ為にこの尊像を秘に奉遷して付近の天領地たる佐美國大藏寺に安置し奉る。而るにこの大藏寺も烈しき時潮に抗し難く 日々衰微の道を辿るに至れり。時恰も飛騨の商賈一人あって、偶々此の地を徘徊し大蔵寺を尋ねたるあり、時に荒廃せし堂内に 此の尊き太子のお姿を拝し奉りて 敬心忽ち深くして 且つは此の奇縁を喜び生國の庶民に一度拝礼せしめんとの志あり。即ち大蔵寺の住侶たる老尼に其の意を告ぐるに又賛ずる所あり。商賈直ちに此の尊像を奉じて飛騨に帰国して 後再び大藏寺を尋ねて謝意を告げんとせしに 即ち祝融[1]の大藏寺を襲いて 堂宇悉く灰燼に帰せしと謂う。

当時の模様については、庄屋を務めた田口家に、高山陣屋の出先である下川辺役所に届け出た古文書が残っている。

乍恐以書付 御届奉申上候 当御支配所 加茂郡 佐見郷 吉田村 大藏寺、一昨十一日夜 亥の刻頃 出火仕り候。右は同十一日朝 囲炉裏 灰取り置き候処、右 灰小屋より出火、本堂、居宅、雪隠、木小屋共家 數 都合四軒 焼失仕り候処、不調法 恐れ入り奉り候。右 住持儀は 別宅に相慎み罷り在り候。之に依り 此の段 村役人 御届け申し上げ候 以上。 

文政五[2]午年 二月十三日 

右 吉田村兼帯百姓代 小野村 直八 

右 同断兼帯年寄 寺前村 良助 

右 同断兼帯庄屋 寺前村 正平

下川辺 御役所

その後の経緯についての記録は無いが、再建されていたことは確かである。

天保5年の強盗

天保5年(1834年)3月12日、大藏寺に強盗が押し入ったことを、下川辺役所へ届け出ている。

下川辺 御役所

恐れながら書付を以て御訴え申し上げ奉り候

當御支配所 加茂郡吉田村 大藏寺に 當三月十二日夜 強盗三人が押込み 右寺看坊所持の品々を盗み取り逃げ去り候 始末申し上げ奉り候。右 十二日夜 凡そ子の刻頃 輿〇〇〇〇 右寺東之方 流し風呂場之間、〇戸押開け 強盗三人口入、右看坊 幷に召使・下男共 荒縄にて捕え置き、三人共 長脇指を抜き身いたし 音立て候はば 直様斬殺し申すべし抔申し、寺内押入 檀笥等さがし、夫より土藏等もさがし、別紙帳面に書上げ候 通りの品々 盗み取り逃げ去り候。夫より召使 彌次郎 村方へ相知らせ候に付き、村方の者共 追々集り、所々相尋ね候得共 行方相知れ申さず、依って村方番田に申し付け 所々相尋ねに及び候に、飛騨國方に逃げ去り候様子に付き 追駈罷り在り候處、松平加賀守様 御領分 越中国岩瀬村と申す處の茶屋にて 三人 休足いたし居る處 見受け、夫より壱里餘先の 田畑村迄追込み、漸く壱人召捕え 外弐人 取逃し申し候。右壱人召捕え 吉田村迄 召つれ候得共、〇〇〇〇〇〇〇〇〇今両三日 休足致させ、本快の上 召つれ 御吟味致され仕り度く願い上げ奉り 此の段 御届け 旁々 願い上げ奉り候。以上。

加茂郡吉田村 大藏寺  

右村兼帯庄屋 寺前村 庄平 

同所 年寄 吉田村 宇左衛門 

同所 同段 吉田村 久六

同所 同段 大野村 次郎左衛門

同所 同段 小野村 直八

同所 百姓代 寺前村 森藏

午四月

剛宗宗戴(浅野剛宗)

明治3年(1870年)8月15日、苗木藩は廃仏毀釈の実行を藩内に通知した。

9月に苗木藩の廃仏毀釈が断行され、領内の各寺院に対して厳しく廃寺と還俗が申し渡されたが、(吉田村・大野村・小野村・寺前村)は、 幕府領と苗木藩領が重複していたため、廃仏毀釈は波及せず、大藏寺は無事であった。

苗木藩内の寺院15ヶ寺の内14ヶ寺の住職は還俗することと決まったが、苗木遠山氏の菩提寺である雲林寺十七世の剛宗宗戴のみは還俗を拒んだ。

青山景通は剛宗宗戴に対し、5人扶持で教諭として雇用するとの条件で説得したが、これを拒み、黄金300両と苗木遠山氏歴代の位牌と仏具を貰い受けて、苗木藩と幕府領が重複した地域であったがために苗木藩の廃仏毀釈が及ばなかった下野村の法界寺の一室に移った。

剛宗宗戴は、その後は浅野剛宗となり、苗木藩の廃仏毀釈により寶林寺が失われた蛭川村に移り、

明治11年(1878年)には、岐阜県山県郡松尾村の高徳寺を蛭川村に移転させる形で寺院の再興を果たした。

明治27年(1894年)、浅野剛宗は突如、誰にも告げず高徳寺を退去し、大藏寺へ引越して来た。

当時、借金がもとで高徳寺の庫裡の建物や土地は既に売却されており、さらに梵鐘も持ち出そうとしていたため、檀家が阻止に動いた。

そこで浅野剛宗は、さらに苗木藩の廃仏毀釈が及ばなかった大藏寺へと転住して来たのであった。

浅野剛宗は、雲林寺の復興のために、めぼしい物は所持していたが、大藏寺の修繕や、自身の病気の治療に費用がかさみ、飛騨高山の古物商に売却したものもあった。

明治34年(1901年)7月19日、浅野剛宗(剛宗宗戴)は入寂した。大藏寺の墓地は西方の小高い丘の上にあり埋葬された。

地蔵菩薩像

妙心寺派の東海門派祖師、悟渓宗頓の高弟、光厳禅師が、苗木遠山氏の菩提寺である雲林寺を創建した際に、光厳禅師の帰依者であった紀伊大納言が寄進した地蔵菩薩を、雲林寺に本尊として安置した。

明治3年(1870年)、苗木藩の廃仏毀釈によって雲林寺が廃寺となったため、この地蔵菩薩は、大藏寺に移された。

明治31年(1898年)、良雪憲州(憲洲宗憲)が、恵那郡下野村の法界寺から、益田郡宮地村の地蔵寺に入山の際に、この地蔵菩薩像を大藏寺から請い受けて随伴したと地蔵寺では伝えられている。

現在、この地蔵菩薩像は、地蔵寺に脇仏として安置されている。

大正4年の火災

大正4年(1915年)5月14日、火災のため再び全焼した。その後、再建されることなく廃寺となった。

佐見文化財保存記念館

大藏寺跡には「佐見文化財保存記念館」が建てられており、仏像や什物が展示されている。

火災を免れた厨子入りの本尊の聖観世音菩薩像、地蔵菩薩像、達磨大師像、弘法大師像、逸嶽慶俊和尚の木像、歴代住持の位牌大般若経600巻、同端本100巻、妙法蓮華経8巻、灌仏会具1式などが保管されている。

灌仏会に使用する誕生仏は、丈16cmの金銅仏で、盥や御堂など一式が完全に残っている。道具を納めた箱の裏に、「弘化五年[3] 三月 出来代 金一両弐分」と記してある。

昭和41年(1966年)に白川町の有形文化財に指定された。

建物周辺には、鐘楼跡、地蔵菩薩立像(石像)、旭光山大藏寺の標石、寺跡の石垣が残っている。

関連リンク

参考文献

  • 『白川町誌』 第三編 生活と文化 第五章 宗教 第四節 寺院 一 佐見村 旭光山大蔵寺 p859-p861 白川町誌編纂委員会 1968年
  • 『白川町誌』 第三編 生活と文化 第五章 宗教 第五節 苗木藩の廃仏毀釈と其後 佐見の大蔵寺 p910-p911 白川町誌編纂委員会 1968年
  • 『白川町誌』 第三編 生活と文化 第七章 文化 第三節 有形文化財 上佐見大蔵寺の誕生仏と灌仏用具 p1029-p1030 白川町誌編纂委員会 1968年 
  • 『ふるさとの歴史』 佐見文化財保存記念館
  • 『大威徳寺物語 大蔵寺秘話』

脚注

  1. ^ 祝融とは火の神、転じて火災のこと
  2. ^ 1822年
  3. ^ 1848年



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