大投手へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:31 UTC 版)
「ウォルター・ジョンソン」の記事における「大投手へ」の解説
ジョンソン入団後もしばらくセネタースは下位に低迷し、ジョンソン自身の勝ち星も伸びなかった。また、この頃のジョンソンはバント処理が苦手でそこを狙われるケースも目立った。しかし1910年には弱点を克服し25勝17敗・防御率1.36、リーグ最多の313奪三振と更に成績を上げ、1912年には防御率と奪三振でリーグトップとなる。ジョンソンに引っ張られる形でようやくセネタースの成績も向上し、この年チームはリーグ2位まで躍進した。 1913年から1919年のジョンソンの活躍は特に凄まじかった。1913年に最多勝、最多奪三振、最優秀防御率の投手三冠を獲得し、同年のチャルマーズ賞(最優秀選手賞)を受賞した。またこの年から4年連続でのリーグ最多勝利投手、奪三振数も1912年から1918年まで8年続けてリーグ最多となる。1916年にはリーグ最多の369回を投げながら、ついに1本のホームランも浴びることがなかった。 この頃のジョンソンの球速は99マイルはあったといわれ、シンシナティ・レッズのジョージ・ハーパーが2ストライクであきらめてバッターボックスから帰ってしまったこともあった。サム・クロフォード曰く、「音だけは聞こえた」という。タイカッブは目をつぶって当たることを期待しながら振っていたとも。30歳になった1918年には二度目の投手三冠に輝き、1919年にも最優秀防御率、最多奪三振の2部門でリーグトップとなった。 きわめて紳士的な性格であり、またやや臆病な面があったといわれ、それに気づいていたタイ・カッブは、ジョンソンとの対戦のときにはあえてホームプレートぎりぎりまで身体を寄せて、ジョンソンが内角球を投げにくいように対策を施したというエピソードがある。またジョンソンは自身の剛速球で死球を与えることを極端に嫌がっていたとも言われ、ボールを頭に当ててしまったときマウンドで真っ青になっていたと言われている。
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