多治比藤善
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 16:21 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動多治比 藤善(たじひ の ふじよし)は、平安時代前期の貴族。氏姓は丹墀真人のち多治真人、多治比真人。官位は従五位下・摂津守。
経歴
左馬助在職中の貞観6年(864年)従五位下に叙爵し、翌貞観7年(865年)丹波権介を兼ねる。貞観8年(866年)一族の丹墀貞岑の上表により、丹墀真人姓から多治真人姓に改姓する。
貞観12年(870年)貞観永宝発行の詔が出されて[1]新銭が鋳造されると、葛野の鋳銭所に近い宗像・櫟谷・清水・堰・小社の五神に派遣されて新銭を奉納した[2]。
その後も引き続き左馬助を務め、貞観19年(877年)には従五位上に叙せられている。また、陽成朝の元慶4年(880年)清和上皇の崩御に際して馬寮に派遣されて非常を監護している。
光孝朝に入り、元慶9年(885年)摂津守に任ぜられて地方官に転じる。しかし、任地に赴任しなかったらしく、翌仁和2年(886年)2月にほかの赴任していなかった国司らと共に召問を受け[3]、5月には位階を従五位下に落とされた。
官歴
『日本三代実録』による。
- 時期不詳:正六位上。左馬助
- 貞観6年(864年) 正月7日:従五位下
- 貞観7年(865年) 正月27日:兼丹波権介
- 貞観8年(866年) 2月21日:丹墀真人姓から多治真人姓に改姓
- 貞観12年(870年) 12月29日:次侍従
- 貞観19年(877年) 正月3日:従五位上
- 元慶4年(880年) 12月5日:見兼加賀守
- 時期不詳:大蔵大輔
- 元慶9年(885年) 正月16日:摂津守
- 時期不詳:多治真人姓から多治比真人姓に改姓
- 仁和2年(886年) 5月18日:降一階(従五位下)
脚注
参考文献
- 多治比藤善のページへのリンク