塩屋村の成立と近世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 04:37 UTC 版)
塩屋は江戸時代より見える地名であり、薩摩国谿山郡谷山郷(外城)のうちであった。村高は「三州御治世要覧」では312石余、「旧高旧領取調帳」では336石余であった。寛文4年の「郡村高辻帳」には塩屋村の記載がなく、福本村に含まれていたとされる。上塩屋・中塩屋・東塩屋・西塩屋・和田塩屋の5地区に分かれていた。 塩屋の浦浜には商家があり商売が営まれており、谷山市史によれば油・雑貨店、海産物商、米穀・味噌醤油業が店を構えていたとされる。また塩屋村には山川路(現在の国道226号の前身)が通っていた。 万治元年(1658年)に薩摩藩主島津光久の命により和田村沖の開発が行われた(和田干拓)。弘化3年(1846年)に塩屋村(現在のラ・サール中学校・高等学校付近)において総指揮役の成田正右衛門の指揮の下薩摩藩の洋式砲術の演習が行われた。島津斉彬がこの砲術演習を視察し、成田に対して質問書を斉彬が下したとされる。安政5年(1853年)には島津斉彬によって中塩屋に硝石場を建設されたとされる。 1882年(明治15年)には塩屋村に浄土真宗本願寺派の説教所が設置され、1888年(明治21年)に妙行寺を公称した。
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