塚の東西と築造年代について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/24 14:45 UTC 版)
「東高野街道錦織一里塚」の記事における「塚の東西と築造年代について」の解説
塚の東西について、現地説明板や市教委の資料で錯綜がみられる。一つは、宝篋印塔が残る塚を西塚とし、今も残る東南側の崩落した塚状地形を東塚と呼ぶものである。藤沢の調査結果に従うもので、現地説明板や平成16年4月付の記事などがある。もう一つは、宝篋印塔が残る塚を東塚とし、その西側にかつて西塚が存在したとするものである。市教委発行の『富田林の文化財』に従うもので、平成元年8月付の記事などがある。前者は現存する地形から、後者は各種地図や航空写真を根拠とするが、どちらが正しいかの結論はでていない。 また、前述のように、明治時代の資料には地蔵と石碑(両者とも塚上に現存する)について記載されているだけで、2基の宝篋印塔についての記載はない。明治以降に他所から移築された可能性があり、塚の築造年代の根拠とすることはできない。
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