城持ちとなる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 07:46 UTC 版)
永禄7年(1564年)夏には家康の東三河進攻に従い、田原領梶(加治)の郷(田原市加治)に砦を構築して今川勢と戦い、ついには今川軍の籠もる田原城(愛知県田原市)を陥落させた。 家康はその恩賞に田原城を与え、その属領七千余貫の地を預けたとされる。これは同年6月22日に家康の判物で吉田城(豊橋市)を与えられた酒井忠次と並び、徳川家譜代家臣の城持ち衆として先駆け的存在(嚆矢は永禄4年に西尾城主となった酒井正親)となる。また、酒井忠次が実際に吉田城を手中に収めたのは永禄8年(1565年)3月となったため、広孝の田原入城はそれよりも早い可能性が有るが、前掲家康判物で酒井忠次は「東三河の儀を申し付け」られており、広孝は徳川軍の東三河旗頭である忠次の指揮下に入っていたと推定される。広孝は以後天正18年(1590年)の徳川家の関東入りまで田原城主を務めた。
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