国外亡命と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/15 07:48 UTC 版)
「ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト」の記事における「国外亡命と晩年」の解説
オーストリアが革命に揺れる1848年3月13日、革命派暴徒の憎しみを集めていたメッテルニヒはザーロモンからもらった金貨と信用状をもって国外亡命を余儀なくされた。ついで暴徒はザーロモンが購入していた「ローマ皇帝ホテル」にも押し寄せてきて、打ちこわしと略奪を行った。身に危険を感じたザーロモンも国外亡命を余儀なくされた。 この革命によってロートシルト家は破産寸前まで追い込まれたが、5兄弟の団結と1849年頃から保守派の反転攻勢がはじまり、革命勢力が衰退しはじめたことでロートシルト家は滅亡を免れた。ザーロモンがオーストリアへ帰国することはなかったものの、彼の息子アンゼルムがオーストリアにおけるロートシルト財閥を立てなおした。 ザーロモンは、1855年7月28日にフランス・パリで客死した。
※この「国外亡命と晩年」の解説は、「ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト」の解説の一部です。
「国外亡命と晩年」を含む「ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト」の記事については、「ザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト」の概要を参照ください。
- 国外亡命と晩年のページへのリンク