四川混戦の中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/24 07:04 UTC 版)
1915年(民国4年)12月、護国戦争(第三革命)が勃発する。呂超は中華革命軍川南司令と称して挙兵し、四川省へ進軍してきた蔡鍔率いる護国軍第1軍に合流した。呂超は、四川南部での袁世凱派軍隊との戦いで軍功をあげ、護国軍の勝利に貢献した。1916年(民国5年)6月、第5師第58団団長に任命された。 1918年(民国7年)2月、孫文らの南方政府により四川靖国軍総司令に任命された熊克武の命令により、呂超は成都へ先鋒として進攻する。そして北京政府派の四川督軍劉存厚を撃破し、これを四川省から駆逐した。これにより、熊克武が四川督軍、楊庶堪が四川省長に任命され、呂超は第5師師長となった。 しかし1919年(民国8年)になると、熊克武は陳炯明、唐継尭、趙恒惕らと連合して、聯省自治を主張し、孫文との路線対立を惹起する。これにより1920年(民国9年)4月、呂超ら孫文派の軍人たちは「倒熊」戦争を開始した。同年7月、呂超は熊を成都から駆逐し、川軍総司令に就任している。しかし熊は、宿敵の劉存厚と和解して共同で反撃し、9月に呂超は敗北して上海に逃亡した。
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