厳家熾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/21 12:34 UTC 版)
厳家熾 | |
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プロフィール | |
出生: | 1885年(清光緒11年)[1][2] |
死去: | 1952年![]() |
出身地: | ![]() |
職業: | 官僚・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 嚴家熾 |
簡体字: | 严家炽 |
拼音: | Yán Jiāchì |
ラテン字: | Yen Chia-ch'ih |
和名表記: | げん かし |
発音転記: | イエン ジアチー |
厳 家熾(げん かし、1885年〈光緖11年〉 - 1952年)は、清末民初の官僚・政治家。清末と北京政府時代は地方官職を歴任した。後に中華民国維新政府、南京国民政府(汪兆銘政権)で要職についている。字は孟繁[1][2][4]。
事績
清末と北京政府での活動
蘇州の名族と言われた東山厳氏の家庭に生まれる[3][注 1]。清末は、江西省九江府知府、景徳鎮同知、広東省韶州府知府、広州府知府、高雷陽道・巡警道と歴任した[1]。なお任官中に、黄花崗で処刑された革命派72人(72烈士)の遺体を収容したとされる[3]。
1913年(民国2年)1月10日、広東省国税庁籌備処処長に任ぜられる。まもなく粤海関監督に異動し、8月23日には広東省財政司長(後に財政庁長)となる。1915年(民国4年)5月26日、湖南省財政庁長署理に転じ、7月6日に上大夫の位を授与された。また、8月9日には暫定代行ながら湖南巡按使をつとめた[5]。
1916年(民国5年)8月29日、広東財政庁長署理に一度復帰した。1918年(民国7年)4月8日には湖南財政庁庁長に再任されたが、半年で辞任。1920年(民国9年)10月23日、地元で江蘇省財政庁長に任命された[5]。同年、東南大学校董にもなっている。1925年(民国14年)に辞任し、河北・熱河官産総処副処長に任命された[1]。
なお、蔣介石国民政府においては、厳家熾の目立つ活動は見られない。
親日政権での活動
1938年(民国27年)3月28日、梁鴻志が中華民国維新政府を設立すると、厳家熾は財政部(部長:陳錦濤)次長に任じられた[6][注 2]。翌1939年(民国28年)4月1日、財政部長の陳錦濤が病気休暇に入ったため、厳が次長のまま部務代理となる(陳は6月12日に死去)[7]。9月16日、財政部長署理に特任された[8]。
1940年(民国29年)3月30日、汪兆銘(汪精衛)が樹立した南京国民政府に維新政府が合流すると、厳家熾は財政部政務次長[9]兼監察院監察使[10]に任ぜられた。財政部政務次長は1943年(民国32年)1月23日まで[11]、監察院監察使は1944年(民国33年)5月2日まで[12]、それぞれつとめている。
晩年
日本敗北後、厳家熾は漢奸として国民政府に逮捕され、懲役13年の判決を受けた。中華人民共和国が成立した後の1952年、広州で死去した[3][注 3]。享年68。
注釈
出典
- ^ a b c d e 徐主編(2007)、2801頁。
- ^ a b 藤田編(1986)、68頁。
- ^ a b c d 孫記事。
- ^ a b 劉ほか編(1995)、1487頁。
- ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:嚴家熾」
- ^ 維新政府令、民国27年4月3日(『政府公報』第2号、民国27年4月18日、維新政府行政院印鋳局、1頁)。
- ^ 維新政府令、民国28年4月1日(『政府公報』第49号、民国28年4月10日、維新政府行政院印鋳局、1-2頁)。
- ^ 維新政府令、民国28年9月16日(『政府公報』第73号、民国28年9月25日、維新政府行政院印鋳局、命令3-4頁)。
- ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『国民政府公報』(南京)第1号、民国29年4月1日、国民政府文官処印刷局、10頁)。
- ^ 劉ほか編(1995)、1052頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1079頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1054頁。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 孫中旺「洞庭東山安仁里厳氏」 「蘇州地方志」(蘇州市地方志弁公室ホームページ)
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。 ISBN 7-101-01320-1。
- 藤田正典編『現代中国人物別称総覧』汲古書院、1986年。 ISBN 9784762910463。
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固有名詞の分類
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