和歌山・東京修学時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 02:10 UTC 版)
1860年(万延元年)、和歌山藩士・三宅栄充の長男として紀伊国和歌山城下に出まれた。7歳で藩校学習館に入り、3年ほど漢籍を学んだ後、民政局参事草野政信の教えを受けた。 1872年(明治5年)、宮内大監の職にあった父を追って上京し、慶應義塾正則部に入学。義塾では成績優秀で、5年制の正則部で飛び級を重ね、在学2年ほどで第5学年に進んだが、この時、学則改正により正則と変則が合併されたため、少年には難解な政治学、経済学が学科の中心となった。不平を覚えた三宅は同級の尾崎行雄とともに別の学級の設置を訴えたが、一二の学生のための特設はできないとして転校を促され、尾崎とともに退学するに至る。
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