吾妻光俊とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 吾妻光俊の意味・解説 

吾妻光俊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/09 05:54 UTC 版)

吾妻 光俊(あづま みつとし、1903年11月9日 - 1973年4月21日)は、日本法学者。専門は民法労働法社会保障法一橋大学名誉教授。末弘厳太郎門下。弟子に蓼沼謙一横井芳弘など。

人物

東京横田秀雄大審院院長・民法学者)の子として生まれる。1925年第一高等学校卒業。1928年東京帝國大學法学部法律学科卒業。同法学部助手。1930年東京商科大学附属商学専門部専任講師。1935年東京商科大学附属商学専門部教授。1936年東京商科大学商学部助教授。1936年労働法研究のためドイツイタリアアメリカ合衆国に留学( - 1939年)。1940年東京商科大学学生主事( - 1941年)。1941年東京商科大学商学部教授。

戦後は民法については概説書を著したほかは、労働法研究に転じ、孫田秀春が始め、戦時中は消滅状態にあった労働法講座を復活させ担当した[1]。1949年一橋大学法学社会学部教授。1951年一橋大学法学部教授。1973年一橋大学停年退官。同名誉教授。中央大学法学部教授に就くが、間もなく逝去した[2][3]

この他、1933年中央大学法学部兼任講師( - 1941年)。1941年中央大学法学部兼任教授( - 1973年)。1950年中央労働委員会公益委員( - 1973年)。司法試験第二次試験考査委員(旧司法試験)(1950年 - 1958年、1962年 - 1973年)[4]

門下生

ゼミの指導学生に蓼沼謙一(第8代一橋大学学長、元労働法学会代表理事)、横井芳弘中央大学名誉教授、元労働法学会代表理事)、坂本重雄静岡大学名誉教授、元労働法学会代表理事)[5]喜多実(元南山大学教授)[6]、本田尊正(元青山学院大学教授)[7]早川章(元運輸省地域交通局長、元東京空港交通会長)[8]、竹内規浩(元スクワイヤー・サンダース・デンプシー(現スクワイヤ・パットン・ボッグス)弁護士、元米国ブリヂストン社長)[9]、大前和俊(元横浜地方裁判所横須賀支部長)[9]など。

親族

エピソード

参考文献

  • 石井保雄「吾妻光俊の戦後労働法学 : ある近代主義者の肖像」獨協法学(69) 2006
  • 石井保雄「戦時期の吾妻光俊の軌跡 : 「労働力のコントロール」理論前史」獨協法学(71) 2007

脚注

  1. ^ 蓼沼謙一「一橋における労働法学」
  2. ^ 以上について、『名誉教授吾妻光俊先生年譜』(一橋論叢 57(5), 1967年)
  3. ^ 好美清光「一橋における民法学」一橋論叢
  4. ^ 以上について、『名誉教授吾妻光俊先生年譜』(一橋論叢 57(5), 1967年)。
  5. ^ ドイツ労働協約法の研究 坂本重雄
  6. ^ ストライキと労働契約 喜多実
  7. ^ 株主総会決議の不存在 岡村勲
  8. ^ 「修士課程」
  9. ^ a b 本年度学位授与論文・単位修得論文
  10. ^ 以上について、『吾妻光俊先生に人と学説』(一橋論叢 57(5), 1967年)。

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「吾妻光俊」の関連用語

吾妻光俊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



吾妻光俊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの吾妻光俊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS