名称と位置関係について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:55 UTC 版)
後述するように、赤谷山には、以下の二つの城跡が存在する。 古城 - 東益之が応永16年(1409年)に築城した城。 新城 - 東常慶が 天文9年(1540年)に築城。 これらに加えて、城郭研究者の高田徹によれば、関ヶ原の戦いに関連する陣所跡が赤谷山に存在していた可能性がある。 これらの城跡の名称と位置関係について、1970年代発行の『日本城郭大系』では、北西の峰にある城が古城(赤谷山城)であり、南東の峰にある城が新城(東殿山城、犬鳴城、気良城)であるとされていた。 しかし、八幡町(現郡上市)および高田は、南東側の城を犬吠山城(古城)であるとし、北西側の城を赤谷山城=東殿山城(新城)であるとしている。そして、「東殿山城」という名称については「東氏の殿様の山城」として江戸時代以降に使われた呼称であるとし、戦国時代当時の名称は「赤谷山城」であったとしている 。 このように、赤谷山城と犬吠山城は別の城であるのに、その呼称と城の歴史が混同している向きがあり、現在でも各書籍にもそれが散見される。八幡町教育委員会(現・郡上市八幡町文化財保護協会)は、この混同の最大の原因は犬吠山系赤谷山の中に二つの城が並立し、同じ東氏が築いたことにあるとしている。 なお、登山道の標柱も「八幡町赤谷山城」となっている旨を高田は述べている。ただし、標柱の存在するあたりは前述の関ヶ原合戦時の陣所であるとも考えられる。
※この「名称と位置関係について」の解説は、「赤谷山城」の解説の一部です。
「名称と位置関係について」を含む「赤谷山城」の記事については、「赤谷山城」の概要を参照ください。
- 名称と位置関係についてのページへのリンク