古代の文献におけるボイイ族
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「ボイイ族」の記事における「古代の文献におけるボイイ族」の解説
ティトゥス・マッキウス・プラウトゥスは自身の作品 Captivi(紀元前205年 - 紀元前184年のいずれかの時期)の中で、ボイイ族について次のように言及している。 At nunc Siculus non est, Boius est, Boiam terit しかし彼はシチリア人ではない。- 彼はボイイ族であり、ボイイ族の女性を得た。 (これには言葉遊びがある。Boiam は「ボイイ族の女性」という意味と同時に「有罪宣告された犯罪者の首枷」という意味がある) 『ローマ建国史』の第21巻でリウィウス(紀元前59年 - 紀元17年)は、ハンニバルにアルプス越えの経路を教えたのはボイイ族だと記している。 紀元前1世紀、ブラチスラヴァ(スロバキア)のオッピドゥムに住んでいたボイイ族は高品質なビアテク銀貨を鋳造しており、ラテン語で王の名と思われる文字を刻んでいた。これがボイイ族が自らについて文字で記した唯一の記録である。
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