反戦のための万国博
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/13 23:25 UTC 版)
反戦のための万国博(はんせんのためのばんこくはく)は、1969年に日本で行われていたイベント。もう1つの万博とされている[1]。
概要
人類の平和と解放のためにを掲げて、自らの手で反戦と平和を発信しようというイベントであった[2]。
1969年の大阪で行われたイベントであった。1970年の日本万国博覧会の開幕を翌年に控えた1969年の夏に、大阪城公園でハンパクと略される反戦のための万国博が開かれた。当時の日本や世界が抱えていた社会問題に目を向けるべきであると考える市民によって行われていたイベントであった。当時の世界では第三次中東戦争が起き、イスラエルがガザ地区やヨルダン川西岸地区を軍事占領し、ベトナム戦争真っ只中であったことから世界各地では反戦運動が起きていた。日本国内ではイタイイタイ病などの公害が起きていた。反戦のための万国博では、これらの国内外の問題をテーマとして討論や演劇や映画や絵画の展示を行っていた。反戦のための万国博への来場者数は日本全国から数万人が訪れるという規模であった[3]。
1969年8月の炎天下の大阪城公園で5日間にわたって行われたカウンターカルチャーのイベントであった。会場は1万坪という広さで、知識人による討論会、各地の社会問題の訴え、フォークソング集会、映画、演劇、芸術作品などの多種多様な展示やプログラムが行われていた。反戦のための万国博の開催というのは議論の中では大阪万博への批判も含まれていたが、単に万博に反対をするというものではなかった[4]。
反戦のための万国博というのは1969年の初め頃にベトナムに平和を!市民連合のうちの南大阪の若者によって発案されていた。そしてこの話は日本全国へと広がって行き、そこでは万博に反対するイベントという意見もあったのだが、ベトナムに平和を!市民連合の代表でもあった小田実が万博に反対だけでは小さいために、もう一つの市民による万博を開催すると力説すれば賛同が集まっていった[4]。
開催にあたり反戦万国博協会が結成され、桃山学院大学の教授が代表となった。反戦のための万国博の理念とは山田宗睦の論稿では、万博とは人知と技術を最先端からとらえようという試みであるのに対し、ハンパクは在地の人民の眼で世界を見るという立場で積極的に万博を批判を展開とのことであった[1]。
ハンパクニュースという広報誌では、この世にはとにかくいろんな人間や大衆が存在しており、ハンパクでは大衆のめちゃくちゃさやアナーキーさやでたらめさを終結させることを目指すとされていた。このためハンパクでは企画部では一切の制限を加えないで、やりたいことと面白いことは何でも受け入れるという自由な方針が打ち出されていた。会場では制限を設けなかったために様々な衝突や批判が発生していた[2]。
脚注
- ^ a b “博物館だより NO101”. 2025年10月10日閲覧。
- ^ a b “「ハンパク 1969―反戦のための万国博―」展示について”. 2025年10月10日閲覧。
- ^ “理想と現実の矛盾 70年万博に向き合った若者の「ハンパク」とは”. 毎日新聞. 2025年10月10日閲覧。
- ^ a b “1969年「ハンパク」 見直し始まるカウンターカルチャーの祭典”. 毎日新聞. 2025年10月10日閲覧。
外部リンク
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