十五代川端道喜の説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)
十五代川端道喜は、川端道喜の創建時の経緯について高橋康夫とはやや違う解釈をしている。十五代川端道喜もやはり「家の鏡」の初代川端道喜の事績は、複数名のものが一緒になってしまっていると考えている。しかし16世紀初頭に餅屋渡辺を創業した人物は、「家の鏡」で渡辺五郎左衛門を婿に取った渡辺進であるとする。渡辺進は皇室の傭兵隊長のような立場から餅座の権利を取得した、いわば成り上がりの人物で、後継者として有望な人物を見つくろって娘婿としたのが鳥羽出身の中村五郎左衛門、初代川端道喜であると推測している。 創業者渡辺進は、天文5年(1536年)の法華一揆に連座して餅屋渡辺の経営から手を引くことになり、一揆後は婿養子の五郎左衛門が店を切り盛りするようになったと考えている。 そして五郎左衛門は自らの息子を政略絡みで久我家に奉公させた。後に二代目道喜となる息子は久我家から竜胆車の紋を拝領し、もともとの渡辺家の家紋であった三ツ星紋は出入紋とした。このような手段を用いて五郎左衛門は創業者、渡辺進色の一掃を図ったと考えている。15代川端道喜は、渡辺進は一代限りの餅屋と見なすべきで、実質的な川端道喜の創業者は法華一揆後に餅屋経営を担うようになった渡辺五郎左衛門、初代道喜であると主張している。
※この「十五代川端道喜の説」の解説は、「川端道喜」の解説の一部です。
「十五代川端道喜の説」を含む「川端道喜」の記事については、「川端道喜」の概要を参照ください。
- 十五代川端道喜の説のページへのリンク