劉潜 (民国)
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| 劉潜 | |
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『中国紳士録 第二版』(1942年)
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| プロフィール | |
| 出生: | 1874年11月[1][2][3][注 1] |
| 死去: | 没年不明(1943年3月11日時点では存命) |
| 出身地: | |
| 職業: | 官僚 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 劉潛 |
| 簡体字: | 刘潜 |
| 拼音: | Liú Qián |
| ラテン字: | Liu Ch'ien |
| 和名表記: | りゅう せん |
| 発音転記: | リウ・チエン |
劉 潜(りゅう せん、1874年11月 – 没年不明)は、清末民初の官僚。別号は雲笙[2][3]、芸生[5]。教育行政分野の官僚で、北京政府、国民政府を経て冀東防共自治政府に参加している。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会では治安部門の秘書長(秘書主任)をつとめ、斉燮元の腹心と目された。
事績
清末・民初の動向
清末の附生(生員)。1904年(光緒30年)、日本に留学して宏文学院を卒業した。帰国後は学部員外郎、奏派学部視学官、中央教育会会員、学部法規編纂処幇総纂などの教育行政分野の官職を歴任している[1]。
中華民国成立後は北京政府で任官し、京師学務局副局長となる[1]。1916年(民国5年)2月5日、中大夫の地位を授与され、12月20日には京師学務局局長を暫時代行した。翌1917年(民国6年)9月7日、黒竜江省教育庁庁長に任命され、1919年(民国8年)1月23日までつとめる[6]。
同年中に劉潜は江蘇省へ移り、滬海道道尹に任命され[1]、1924年(民国13年)8月7日には蘇皖贛巡閱使署機要処処長となっている[6]。この江蘇省での赴任期間に、蘇皖贛巡閱使をつとめていた斉燮元の側近としての地位を得たものと見られる。
国民政府時代の1929年(民国18年)1月21日、河北省政府民政庁主任秘書として任用される。1930年(民国19年)12月14日、両淮塩運使公署課長にいったん転じた後、1935年(民国24年)7月31日に河北省政府民政庁秘書に戻ったが、同年12月13日に辞職している[6]。
親日政権での活動
1936年(民国25年)秋、劉潜は冀東防共自治政府教育庁長として起用された[1][2][3]。なお、通州事件における劉の動向は不詳である。中華民国臨時政府が創立されると、劉もこれに参与した。1938年1月1日、治安部秘書長兼総務局長(総長:斉燮元)に任命されている[7][8]。5月20日、総務局長につき兼務解除され、秦崋が後任局長となった[9][注 2]。1939年(民国28年)12月5日、華北礬土鉱業股份有限公司で理事を兼任している[10]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。治安部も治安総署に改組され、5月4日に劉潜は治安総署秘書長代理に任命された[11][注 3]。同年12月、総署秘書長が総署秘書主任と改称されたため、劉は治安総署秘書主任代理に重任している。
1943年(民国32年)2月、華北政務委員会委員長が王揖唐から朱深に交替し、大幅な人事異動が実施される。3月10日までに劉は治安総署秘書主任代理を退き[注 4]、新たに治安総署署長代理となった秦崋が秘書主任代理を暫時兼務となった[注 5]。4月には、兼務していた故宮博物院臨時理事と資歴審査委員会委員も辞任した。なお、この際の華北政務委員令には病気によるものと明記されている[12]。
以後、劉潜の行方は不詳である。
脚注
注釈
- ^ 尾崎監修(1940)は、「1876年生」としている。高木と神田らは「本年六十二」としており、数え年ならば「1874年生まれ」となる。本記事は、満蒙資料協会、高木及び神田らに、いったん従う。
- ^ 劉ほか編(1995)、1023頁は「5月23日」としているが、恐らくは公報発行日と取り違えと見られる。
- ^ 公報上の任命は5月4日だが、華北政務委員会が成立した3月30日に事実上の重任となっていた可能性が高い。
- ^ 華北政務委員会公報には劉潜の秘書主任代理退任につき記載は無い。秦崋の3月10日人事情報のみ記載がある。
- ^ 翌3月11日の国民政府令では、治安総署秘書主任代理を退任していたはずの劉潜が秘書主任に、新たに署長代理兼秘書主任暫時代理となった秦崋が総務局局長(秦の前職)に、それぞれ正式任命された(『日文国民政府彙報』第169号、民国32年11月29日、中国和文出版社、2頁)。何故このような事態となったかは不明だが、治安総署人事をめぐり華北政務委員会と国民政府中央との間で意思疎通が不十分だったことだけは確かである。
出典
- ^ a b c d e f 満蒙資料協会編(1942)、227-228頁。
- ^ a b c d 高木(1937)、138-139頁。
- ^ a b c d 神田著、東洋事情研究会編(1937)、48頁。
- ^ 尾崎監修(1940)、359頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1465頁。
- ^ a b c 中華民国政府官職資料庫「姓名:劉潛」※同姓同名の別人(大使館員)も検索されることに注意
- ^ 臨時政府令、民国27年1月1日(『政府公報』〈臨時政府1937年-1940年〉第1号、民国27年1月18日、15頁)。
- ^ 劉ほか編(1995)、1023頁。
- ^ 臨時政府令、令字第198号、民国27年5月20日(『政府公報』〈臨時政府1937年-1940年〉第18号、民国27年5月23日、3頁)。
- ^ 「華北礬土鉱業創立」『同盟旬報』3巻34号通号89号、昭和14年12月上旬号、同盟通信社、19頁。
- ^ 華北政務委員会令、任字第55号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期、民国29年6月9日、本会16頁)。
- ^ 華北政務委員会令、会字第1191号、民国32年4月28日(『華北政務委員会公報』第211期、民国32年6月1日、本会6頁)。会字第1197号、民国32年4月29日(『華北政務委員会公報』第212期、民国29年6月6日、本会1頁)。
参考文献
- 劉潜_(民国)のページへのリンク