初代サヴォイア公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/16 15:43 UTC 版)
「フェリクス5世 (対立教皇)」の記事における「初代サヴォイア公」の解説
1383年にサヴォイア伯アメデーオ7世が儲けた3人兄弟の長男として生まれた。母はフランス王子ベリー公ジャンの娘ボンヌ・ド・ベリー(ボナ・ディ・ベッリ)である。アメデーオ8世が幼い時に父が死没したため、1391年に8歳で母を摂政に立てて爵位を継承した。彼の青春は母の執政と、相次ぐ親類の死去で彩られた。2人の弟たちを初めとして、サヴォイア家の男子縁者の多くが倒れ、青年期の時点でアメデーオ8世はサヴォイア家唯一の男子となった。このような状況下で親政を開始したアメデーオ8世は、一族内で分割されていたサヴォイア伯国内の領土を次々と当主の直轄領に戻し、サヴォイアを強力で集権的な国家に育て上げた。 外交にも長けており、折りしも西欧で百年戦争の真っ只中でもあった治世の中、フランス王とイングランド王、神聖ローマ皇帝などの王侯間で巧みに立ち回り、最終的に皇帝ジギスムントから帝国公爵の地位を授けられた。これによってサヴォイア伯は公爵に昇爵したと見なされた。アメデーオ8世は「温和公」(il Pacifico)の綽名で呼ばれた。
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