冷遇の晩年
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寛永12年(1635年)、松平定房が今治へ移封されることとなったために領地替えが行われ、藤堂家には新たに伊勢多気郡・飯野郡内2万石が替地として与えられ、そこが高吉の所領となった。しかし翌寛永13年(1636年)、高次の命により更に伊賀名張に移封され、名張藤堂家の祖となる。次男以下3名に5000石を分知し、1万5千石となった。 高次は高吉の存在を危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名に取り立てようという動きがあったためといわれる)、享保年間まで名張藤堂家と本家との対立は続いた。そうした背景もあってか、名張家の藩主は第9代の藤堂長徳まで、藤堂氏の通字である「高」ではなく丹羽氏の「長」を使用している。 名張藤堂家は代々宮内を通称し、藤堂宮内家とも呼ばれる。11代の高節の時に明治維新となり、子孫は現在も東京に在住する。 寛文10年(1670年)7月に死去した。享年93。墓所は名張の徳蓮院にある。
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