冷遇の晩年とは? わかりやすく解説

冷遇の晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:38 UTC 版)

藤堂高吉」の記事における「冷遇の晩年」の解説

寛永12年1635年)、松平定房今治移封されることとなったために領地替えが行われ、藤堂家には新たに伊勢多気郡飯野郡2万石が替地として与えられ、そこが高吉の所領となった。しかし翌寛永13年1636年)、高次の命により更に伊賀名張移封され、名張藤堂家の祖となる。次男以下3名に5000石を分知し、1万5千石となった高次は高吉の存在危険視したとされ(幕府に高吉を藤堂本家から独立した大名取り立てようという動きがあったためといわれる)、享保年間まで名張藤堂家本家との対立続いたそうした背景もあってか、名張家の藩主第9代藤堂長徳まで、藤堂氏通字である「高」ではなく丹羽氏の「長」を使用している。 名張藤堂家代々宮内通称し、藤堂宮内家とも呼ばれる11代の高節時に明治維新となり、子孫は現在も東京在住する寛文10年1670年7月死去した享年93墓所名張の徳院にある。

※この「冷遇の晩年」の解説は、「藤堂高吉」の解説の一部です。
「冷遇の晩年」を含む「藤堂高吉」の記事については、「藤堂高吉」の概要を参照ください。

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