全日本F3000時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 20:23 UTC 版)
「ハインツ=ハラルド・フレンツェン」の記事における「全日本F3000時代」の解説
1992年、F1のシートを模索したが頓挫し、国際F3000のシートも失い、ローラのマシンを駆りスポーツカーレースに参戦していたフレンツェンに転機が訪れる。全日本F3000にノバエンジニアリングから参戦していたフォルカー・ヴァイドラーが突発性難聴でシーズン途中に帰国した(その後引退)。ヴァイドラーは後任として同郷のフレンツェンを起用するよう、ノバ監督の森脇基恭に進言。フレンツェンは1992年終盤戦から1993年にかけて全日本F3000に参戦し、ミカ・サロやエディ・アーバインらと「F1予備軍」として競い合った。1993年の第3戦MINEでは、ヘビーウェットコンディションの中で他のドライバーよりも1周あたり5秒速いペースで独走し、結果的にリタイアしたものの、日本のレース界に強い印象を残した。第8戦菅生の予選では、フレンツェンの予選アタックを見て衝撃を受た星野一義が、予選終了後に自らノバのピットに赴きフレンツェンを見つけると「お前はこんなところでくすぶっていないで早くF1に行け」と激励されたこともあった。 1993年の成績はポールポジション1回、表彰台1回、ファステストラップ2回でランキング9位。速さは誰もが認めるところでありながら、全日本チャンピオンを獲得することはできなかったため、同年の秋に翌年からフレンツェンをF1でデビューさせると決断していたペーター・ザウバーから「(日本でチャンピオンを獲れなかったのは)彼の何が悪いのか?」、「彼の走りは(日本では)どういう部分が問題なのか?」としきりに尋ねられたと、森脇は1994年シーズン開幕直前のテレビ番組にて語っている。しかし、森脇の指導の甲斐もあってか、「特殊」で知られ外国人ドライバーの誰もが苦労する全日本F3000の日本製・超ハイグリップタイヤを結果的に使いこなした。
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