元号「平成」の制定担当
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在職中であった1985年から1989年にかけて、昭和の次の元号制定準備にも関わり、国内の学者数人へ極秘裏に、新元号の候補作成を依頼していた。的場によるとこの間、10以上の元号候補が集められ、これらが昭和最後の前日となる1989年1月6日から7日にかけて「平成」「修文」「正化」の3つに絞られたという。『国の内外にも平和が達成される』という意味においても「平成」は政府として第一候補だったという。そしてアルファベットを使った略表記の際に「修文」と「正化」ではともに頭文字がSとなって昭和のSとの区別が難しくなるが、「平成」ならHとなるのでそうした混乱はないことが決め手になった。 なおこの元号制定の経緯、特に考案者については制定時に20年間の極秘事項とされた。竹下登(当時の内閣総理大臣)、小渕恵三(当時の内閣官房長官)らとの会談により、「考案者の名前が出れば、本人にまつわる色々なことからケチがつく。20年は黙っておくこと」として決められたものである。実際に当事者だった的場から「平成」の考案者は山本達郎であることが公表されたのは、改元から26年を経た後のことだった。
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