側用人高橋甚吾兵衛による改革
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「薩摩藩の天保改革」の記事における「側用人高橋甚吾兵衛による改革」の解説
江戸詰め藩士の俸給が10カ月以上ストップする中、藩士たちの藩政に対する不満が高まっていく。重豪は逼迫する藩の財政問題への本格的な対応を迫られ、文政9年(1826年)10月、まず大坂藩邸金方奉行であった新納時升に白羽の矢を立て、財政問題への対応を命じたが新納は断った。新納は「大坂商人と関係が深い自分のような者は、これまでの恩を仇で返すようなことは出来ない。これまで大坂商人と縁がない人物がやるのが良い」と語ったと伝えられている。 結局、文政10年(1827年)、逼迫する財政問題に対する対応は側用人の高橋甚吾兵衛が取り組むことになった。高橋甚吾兵衛は大坂商人の平野屋甚右衛門を登用して藩債の整理を進めようとしたが、結局平野屋甚右衛門は資金を全く用意できずに失敗した。続いて高橋甚吾兵衛は改めて出雲屋孫兵衛を登用して藩債整理を行おうとしたが、やはりこれも失敗に終わった。こうして高橋甚吾兵衛による改革は失敗した。 しかし出雲屋孫兵衛の協力者であった平野屋彦兵衛には資金力があり、出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛とも、その後まもなく始まる調所広郷による改革で重要な役目を果たすことになる。
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