保科家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:41 UTC 版)
関ヶ原の戦いの後、高遠には正直の子正光が2万5000石で入部したことにより高遠藩が成立した。正光は慶長11年(1606年)の江戸城石垣修理や5年後の堀普請、大坂の陣参戦など幕府に奉仕している。しかし正光には嗣子が無かったので、正光は第2代将軍・徳川秀忠の隠し子(生母が正室・於江与ではなかったため、その悋気に触れることを恐れた秀忠が正光に預けていた)である幸松こと保科正之を養育することになった。元和4年(1618年)には正之の養育料として筑摩郡に5000石を加増された。寛永6年(1629年)6月に正之は兄の第3代将軍徳川家光と初対面し、寛永8年(1631年)11月、正光の死により正之が家督と3万石を継いで従五位下肥後守に叙任されたが、この頃になると於江与が既に亡く、正之が秀忠の息子であることも周知の事実となったため、徳川家光の計らいにより、正之は寛永13年(1636年)7月に出羽山形藩20万石に加増移封された。
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