保安大学受験拒否事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 04:49 UTC 版)
「北海道深川西高等学校」の記事における「保安大学受験拒否事件」の解説
1952年、当時の校長が保安大学校を進学先に志望した生徒と父母に対して個人面談を行い、「この大学は普通の大学と異なり軍人幹部を養成するところであり、保安隊はれっきとした軍隊で憲法にも違反するものである。先の戦争の反省からも我が校の学生を戦場に送りだす人生選択には賛成できない」という趣旨の意見を述べ、受験を思いとどまらせたことがあった。 これに関連して、校内に張り出された保安大学校受験ポスターを校長が撤去したことがマスコミに知られ、「受験拒否事件」として大々的に報道された。更には、「生徒の進路選択を制限」する人権侵害の疑いがあるとして人権擁護局が調査に乗り出す事態にまで発展した。 結果的に人権侵害の疑いは晴れ、それ以上問題化されることはなかったが、校長はその後に起きた校内火災事故などの責任をとって同校を去った。この事件によって、地域住民のみならず文部省や北海道教育委員会などからも「左がかっている」要注意の学校と目をつけられることになった。
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