佐野勝稔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/08 01:06 UTC 版)
基本情報 | |
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国籍 |
![]() |
出身地 | 神奈川県藤沢市 |
生年月日 | 1945年6月25日(79歳) |
身長 体重 |
170 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1970年 ドラフト5位 |
初出場 | 1971年 |
最終出場 | 1973年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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佐野 勝稔(さの かつとし、1945年6月25日 - )は、神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手。ポジションは主に二塁手。
来歴・人物
横浜高校では、三番打者、二塁手として1963年夏の甲子園に初出場[1]。準決勝に進むが、和田徹のいた明星高に敗れる[2]。明星高はこの大会で優勝。高校同期にエースの井上健仁(東映)、1年下に控え投手の平岡一郎がいた。
駒澤大学へ進学。東都大学野球リーグでは1964年春季リーグで優勝を経験。1967年秋季リーグでは首位打者を獲得し、同季のベストナイン(二塁手)に選出される。大学同期に当銀秀崇、後原富がいた。
卒業後に河合楽器へ入社。1968年の都市対抗に出場。決勝に進むが富士製鐵広畑の神部年男に抑えられ0-1で完封負け、準優勝にとどまる[3]。この大会では15打数5安打を記録した。翌1969年の都市対抗は準決勝で電電関東に惜敗する[3]が、優秀選手賞を獲得、同年の社会人ベストナイン(二塁手)に選出される。
1970年ドラフト会議で近鉄バファローズから5位指名を受け入団[1]。1971年にはジュニアオールスターに出場。シーズン後半には飯田幸夫に代り二塁手に定着、45試合に先発出場を果たす。翌1972年には安井智規が二塁手に回り、その後ジム・クォルスも入団したため、三塁手も兼ねて起用される。しかし翌年から出場機会が減り1974年限りで引退した[1]。
現在は全国屈指の強豪である中学硬式野球チーム「浜松シニア」の監督として鈴木尚典や後藤武敏、野久保直樹らを指導。教え子の多くを母校の横浜高校へ送り出している。息子の大輔は斉藤宜之、多村仁と同期。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1971 | 近鉄 | 51 | 157 | 136 | 10 | 29 | 4 | 0 | 0 | 33 | 3 | 7 | 3 | 2 | 0 | 16 | 0 | 3 | 15 | 2 | .213 | .310 | .243 | .552 |
1972 | 61 | 111 | 102 | 10 | 23 | 3 | 1 | 0 | 28 | 2 | 0 | 1 | 1 | 0 | 7 | 0 | 1 | 18 | 2 | .225 | .282 | .275 | .556 | |
1973 | 33 | 37 | 35 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | .143 | .167 | .143 | .310 | |
通算:3年 | 145 | 305 | 273 | 22 | 57 | 7 | 1 | 0 | 66 | 6 | 8 | 5 | 4 | 0 | 24 | 0 | 4 | 36 | 4 | .209 | .282 | .242 | .524 |
背番号
- 36 (1971年 - 1974年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 佐野勝稔 - NPB.jp 日本野球機構
固有名詞の分類
- 佐野勝稔のページへのリンク