佐伯藩の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 10:18 UTC 版)
慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなると高政も日本に帰国した。高政は慶長の役で軍監を勤めた関係から石田三成やその与党である垣見一直と対立しており、また朝鮮では水軍の将を務めた武断派であったことからも三成とは不仲であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初こそ西軍に属して丹後田辺城の細川幽斎を攻める軍に参加した(田辺城の戦い)。これは石田三成と不仲ではあったが、西軍の名目上の総大将が自らに毛利姓を与えてくれた毛利輝元だったためといわれる。田辺城は2か月の長期戦の末に開城するが、その3日前に関ヶ原の戦いは終わっていた。高政は盟友の藤堂高虎の説得、九州で留守部隊を率いていた東軍の黒田如水より東軍への勧誘工作もあったため、東軍に寝返った。高虎の取り成しもあり、慶長6年(1601年)4月5日、徳川家康の命令で高政は同じ石高での日田から佐伯栂牟礼城以下2万石に移封され、ここに佐伯藩が成立した。
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