佐伯葛城の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 22:19 UTC 版)
古佐美が延暦8年4月6日(789年5月5日)付の奏状を送ってから、前述の桓武天皇の勅が届いたと思われる延暦8年5月19日(789年6月16日)頃までの間に、『続日本紀』延暦8年5月26日(789年6月23日)条から征東副使・佐伯葛城が死亡していたことがわかっている。 陸奥の朝廷軍本営と長岡京との駅使による通信には片道7日程度を要していたことから、延暦8年5月26日(789年6月23日)が朝廷に葛城の死についての報告が届けられた日であると仮定すれば、古佐美が葛城の死を報じる奏状を送ったのは延暦8年5月19日(789年6月16日)頃となる。そのため葛城の死は延暦8年4月6日(789年5月5日)付の奏状を送ってから延暦8年5月19日(789年6月16日)頃までの間のことであったとみられる。
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