伊勢介か美濃介か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:14 UTC 版)
出迎えについて記すところで、『日本書紀』は「国司守三宅連石床、介三輪君子首」とだけ記し、どの国の国司だったかを伝えない。場所が伊勢国なので伊勢の国司とするのが自然な文脈解釈である。直後に500の兵を発したのも、美濃から兵力を連れてきたとするより現地の兵力とするほうが自然である。また、時代が下って『日本三代実録』の仁和3年(887年)3月1日条、子首の孫の孫にあたる大神良臣の訴えの中で三輪君子首を伊勢介としている。これが通説である。 他に、子首が美濃の国司だったとする説もある。これは、ともに出迎えた高田新家が美濃国の主稲という役人だったことを示す記事が『続日本紀』にあることによる。
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