仲石伴の経歴
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仲真人石伴の初見は『続日本紀』天平宝字3年(759年)の記事であり、舎人親王が崇道盡敬皇帝の尊号を追贈された際に従四位下に叙せられ、従五位下から従四位下に昇進したというものである。この時に他の舎人親王の孫が二世王待遇となって従四位下に叙せられていることから、仲石伴も舎人親王の孫である可能性もある。仲麻呂の娘を妻としており、仲麻呂政権下で河内守や右虎賁衛督・左勇士率と武官を歴任する。 またこの間の天平宝字5年(761年)には第14次遣唐使の遣唐大使に任ぜられている。しかし、天平宝字6年(762年)3月に遣唐副使が石上宅嗣から藤原田麻呂に交代するという体制上の問題が発生し、さらに安芸国から難波江口(淀川河口)に到着した遣唐使船が破損したため、遣唐使の規模を縮小せざるを得なくなり、石伴に替わって遣唐判官・中臣鷹主が遣唐大使となっている。 天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では仲麻呂と行動を共にし、近江国で敗死した。
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