代理国務総理に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 22:51 UTC 版)
袁世凱死後、1917年(民国6年)5月に、江朝宗は王士珍を補佐して京津警備副司令に就任した。まもなく張勲が北京入りを図り、黎元洪に対して国会解散を迫った際には、江が黎から委任されて国会解散命令に署名した。さらに14日間ではあるが代理国務総理を務めた。 同年7月1日に張勲が復辟を敢行すると、江はこれを支持して復辟会議にも参加した。しかし、まもなく段祺瑞が張勲討伐に動くと、江は張勲を裏切り段に呼応した。それでも落着後には、江は歩軍統領の辞任に追い込まれている。 1918年(民国7年)10月、江朝宗は銭能訓内閣で防疫督弁をつとめた。しかし、その職務は怠慢かつ腐敗したものであり、世論から度々批判された。1919年(民国8年)、銭とともに辞任した。以後の江は、安徽派を糾合して安徽省の統治者になろうとしたり、あるいは呉佩孚らの直隷派を支援したりするなど、復権のための様々な政治的画策を行った。しかし、ことごとく失敗に終わっている。
※この「代理国務総理に」の解説は、「江朝宗」の解説の一部です。
「代理国務総理に」を含む「江朝宗」の記事については、「江朝宗」の概要を参照ください。
- 代理国務総理にのページへのリンク