仕切り場とバタヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 09:24 UTC 版)
旧「蟻の街」があった一角の初期は、同胞援護会が管理していた製材工場跡と約600坪の土地を元ヤクザの小澤求が同会より借り受け、廃品の仕切り場とするためだった。仕事のない人々を日雇いで雇いあげ、ガラスくず、鉄・銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収させ、再生工場へ送る事業を行った。当時はこのような業務を行う労働者を「バタヤ」と呼んだ。収集して来た物品の買い取り価格が低いため、バタヤの生活は貧しく苦しかった。小澤は自前の仕切り場を開設し、バタヤたちに適切な報酬を支払うことを目指した。小澤の仕切り場での報酬は出来高払いで、仕切り場の労働者とその家族たちを居住させ、仕切り場はいわば生活共同体となった。当時はバタヤたちが公共の土地に無許可で集落を形成する「バタヤ集落」が点在し、小澤の仕切り場もその一つと見なされていた。
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