五十嵐恵 (海軍軍人)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 五十嵐恵 (海軍軍人)の意味・解説 

五十嵐恵 (海軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/28 02:32 UTC 版)

五十嵐いがらし めぐみ
生誕 1889年5月24日
日本新潟県中頸城郡旭村(現・新潟県上越市
死没 (1927-08-24) 1927年8月24日(38歳没)
日本島根県美保関町
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1912年 - 1924年
最終階級 海軍中佐
テンプレートを表示

五十嵐 恵(いがらし めぐみ、1889年明治22年)5月24日 - 1927年昭和2年)8月24日)は、日本海軍軍人美保関事件殉職した「駆逐艦長である。最終階級は海軍中佐

人物・来歴

略歴

新潟県中頸城郡旭村(現・新潟県上越市)の豪農で郡議会議員を務めた五十嵐正綱の次男。高田中学長岡中学を経て、1908年(明治41年)に海軍兵学校へ進んだ[1]。 五十嵐は海兵39期で、伊藤整一角田覚治和田操らが同期生である。席次は入校時150名中40番、卒業時148中92番。1912年(大正元年)12月少尉任官。駆逐艦乗組み、「矢矧」水雷長、「白露」駆逐艦長などを経て海軍大学校入校。甲種24期で、学生長は原忠一山口多聞福留繁草鹿龍之介ら総勢20名であった。五十嵐は席次3番で卒業し[2]、第27駆逐隊所属の「蕨」駆逐艦長に補された。連合艦隊の夜間主力艦襲撃訓練中、「蕨」は軽巡洋艦神通」と衝突し沈没。五十嵐ら92名[3]が殉職した。

人物

五十嵐は運動が得意で柔道四段、大柄な体躯であった。草鹿は「論客で、曲がったことは嫌い」と評している[4]。海兵、海大とも同期の原は親友であり、体つきや性格まで似ていたという[5]。「」駆逐艦長として美保関事件の現場にいた原は、五十嵐の死後も五十嵐家を頻繁に訪問し、戦後も交流が続いた。五十嵐家は海軍将校がよく訪問しており、山口多聞は常連であった。美保関事件時に軽巡洋艦「那珂」と衝突した「」駆逐艦長で、のちに殉職(戦死)する須賀彦次郎もその一人である。「神通」艦長で自決した水城圭次は五十嵐の海大時代の恩師であった。妻と一男一女が残され、事件当時3歳であった長男は日本蝶類学会会長を務めた五十嵐邁である。

出典

  1. ^ 夜間演習中の四隻、駆逐艦「蕨」が沈没『大阪毎日新聞』昭和2年8月26日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p49 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ 『美保関のかなたへ』p.23
  3. ^ 『美保関のかなたへ』p.84
  4. ^ 『一海軍士官の半生記』p186
  5. ^ 『美保関のかなたへ』p.78

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「五十嵐恵 (海軍軍人)」の関連用語

五十嵐恵 (海軍軍人)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



五十嵐恵 (海軍軍人)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの五十嵐恵 (海軍軍人) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS