九州・小田原参陣と嫡子への家督相続
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「宮部継潤」の記事における「九州・小田原参陣と嫡子への家督相続」の解説
本能寺の変後、秀吉が大きな権力を握るようになると正式に鳥取城主となり、5万石を領した。天正13年(1585年)の佐々成政攻めや、九州平定にも南条元続、亀井茲矩、荒木重堅、垣屋光成らの軍を従えて参戦し、日向国高城にて島津家久軍を撃退している(根白坂の戦い)。秀吉はこの戦いでの働きを「法印(継潤)事は今にはじめぬ巧者ものなり」(『川角太閤記』)と讃えたという。九州征伐後、因幡・但馬国内で加増され、5万971石を知行。軍役は、前述の因幡・但馬の国人衆を含めてであろうが、5,350人とある(宮部文書)。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参陣。同年に嫡子・長房に家督を譲っているが、形式上なものであって本人が隠居したわけではなく、戦場での活動は減るものの、政務上での活動は続く。
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