久保谷唯三
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くぼたに ただぞう
久保谷 唯三
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『芸南古今人物誌』(1966年)掲載肖像
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生誕 | 1921年1月25日[1][2]![]() |
死没 | 不明 |
職業 | |
肩書き | |
久保谷 唯三(くぼたに ただぞう、1921年1月25日 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家、馬主。
経歴
1921年1月25日、広島県竹原町(現竹原市竹原町)で煙草、塩の販売業を営む家庭に生まれる[2]。学校を卒業後、一度大阪府に出たのち長崎県へ向かい、三菱長崎造船所に入社した[2]。1941年には現役兵として下関第72部隊に入隊したが、終戦に伴い除隊となると故郷の竹原に戻った[2]。1946年5月には25歳ながら竹原町議会議員選挙に立候補し2位当選を果たすと、町議会内で起こった不正事件にかかるリコール問題でリコール派の筆頭として活動し議会の解散に持ち込む[2]。翌1947年にトップで再選を果たすと同議会副議長に就任した[2]。1949年に議長・議員の職を辞すると、東京都に向かい築地青果株式会社の社長に就任[2]。その後製造業の山陽興産株式会社、竹原交通有限会社を興したほか広島市牛田町における住宅団地の造成事業、缶詰製造といった事業にも進出した[2]。地元・竹原市の上水道工事にも協力し市から表彰状が贈られている[2]。また教育活動への寄附も行い、現在も竹原市で実施されている奨学金事業「久保谷奨学金基金」にその名を残している[3]。
馬主活動
日本中央競馬会(JRA)に登録していた馬主としても知られた。勝負服の柄は白、桃二本輪、桃袖、冠名には「ランサー」を用いた。戦時に兄を広島原爆によって失ったものの、自らは難を逃れたといった紙一重の人生を送った経験から、競走馬を持ちたいと思うようになった[1]。軍部に在籍していた際には軍馬を扱った経験があり、当初は馬を恐ろしく思っていたが、慣れたころには意地の悪さは根性があることなのだと気づいたという[1]。このことから、久保谷が大島牧場を訪れ、「意地の悪い馬を購入したい」といって見出したのがコーネルランサーであった[1]。
主な所有馬
- コーネルランサー(1974年東京優駿)
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『芸南古今人物誌』(芸南新聞社、1966年)
- 『日本ダービー50年史』(日本中央競馬会、1983年11月)
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