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中林湘雲

(中林積 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 09:56 UTC 版)

中林 湘雲
本名 三浦貞随
誕生日 文政元年(1818年
出生地 相模国三浦郡浦郷村字日向(神奈川県横須賀市浦郷町)
死没年 明治23年(1890年
国籍 日本
配偶者 中林清淑
流派 南画
教育 谷文晁中林竹洞、平野五岳
代表作 『四季耕作図』『海鷲図』
影響を与えた
芸術家
中島待乳
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中林 湘雲(なかばやし しょううん、文政元年(1818年) - 明治23年(1890年))は幕末明治初期の南画家。旧姓は三浦、僧号は貞随、貞順、名は積、別号は沖岳。中林竹洞、平野五岳門下。横須賀市光龍寺第12世。

生涯

文政元年(1818年)相模国三浦郡浦郷村字日向(神奈川県横須賀市浦郷町)光龍寺住職三浦家の長男として生まれ、幼年期江戸谷文晁に学んだ[1]天保9年(1838年)前までに京都に出て中林竹洞に師事し、京都町奉行浅野長祚に仕えた[1]嘉永6年(1853年)竹洞が死去すると三女中林清淑を娶り、中林姓を私称した[1]

安政5年(1858年)浅野長祚が小普請奉行に左遷されると江戸に移り[2]、夫婦で全国を漫遊し、豊後国日田で同宗派住職平野五岳に師事し、名を積、号を沖岳[3]とした[1]

元治元年(1864年)父の死により帰郷し、誓約通り正龍寺を継いだが、慶応3年(1867年)中林竹渓が死去すると正式に中林家を継ぎ、明治元年(1868年)寺を15歳の長男貞玄に継がせた[1]戊辰戦争では日田咸宜園出身大村益次郎の下で軍務官に勤め[1]、維新後兵部省門番頭を務めた[4]

1882年(明治15年)本所区亀沢町一丁目の中林家の家督を長女に、1887年(明治20年)正龍寺を近隣同宗派の住職の弟に譲り、1890年(明治23年)死去した[1]

作品

『海鷲図』「雪爪星眸世所稀/摩天専待振毛衣[5]/六十一翁湘雲中林随」[6]

親族

三浦家

  • 祖:三浦義澄[1]
  • 第9世:西義[1]
  • 第10世:了義[1]
  • 第11世:心樹院義澄(義證、天明4年(1784年) - 元治元年(1864年))[1]
  • 第12世:義随(貞随、貞順[9]、湘雲)[1]
  • 第13世:貞玄(安政元年(1854年)生) - 湘雲と中林清淑結婚直後の長男か[1]
  • 第14世:敬院貞義(1886年(明治19年)没)[1]
  • ワカ(1874年(明治7年)生) - 湘雲又は貞義の娘。1892年(明治25年)中里村(横須賀市上町)の旧家に嫁いだ[1]

中林家

清淑は生前弟新林喜久之助孫娘を養孫としたが、死後その養孫は他家に嫁ぎ、その養孫の妹が中林家を継いだ[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 松木 2005.
  2. ^ a b c 山田 2015.
  3. ^ 竹洞の隠居号沖澹と五岳に因む。
  4. ^ 8月4日 司法省 元兵部省門番頭引渡要請に対する回答
  5. ^ 高越『詠鷹』に依る。
  6. ^ a b Failla 2015.
  7. ^ 河野 2001.
  8. ^ Failla 2016, p. 37.
  9. ^ a b 小野 1997, p. 53.

参考文献




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